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事実は小説よりクレイジー ゼロ年代後半の名もなきクラブシーン 2005~2006神戸

ターンテーブルとmacを手に入れたものの、当初は大学のサークルくらいしか活動するところがない状況。

人見知りな上に、どこのクラブでどんな音楽が流れてるのか、などの情報も乏しい。

そもそも神戸はレコード屋さんも少なかった。当時はかろうじてJetsetが元町に残っていたが、なかなかにして閑古鳥だった気がする。

結局、レコードも今は亡きCISCOやAfter hoursで買いあさるようになる。

そう思うと、2005年あたりのクラブシーンは、いろんな意味でデジタルネイティブになっていく最晩年だったのかもしれない。

右も左もよくわかっていない中、大学の先輩に比較的ハイプなカルチャーな人がいて、当時盛り上がりつつあったエレクトロに手を出し、大阪を中心に活動をしていた。

とはいえ、当時のエレクトロも、いわゆるEd banger系のフレンチエレクトロに集約されているわけではなく、todd terjeやprins thomasのようなディスコダブ、グライムやダブステップなども入り乱れた感じだった。
今思えばかなりオシャレで面白い雰囲気だったのだが、ビギナーもいいところの自分にとってはまったくついていけず。

そんな大阪のパーティにたまに行くようになる一方、ようやく神戸のクラブにも行き始めたのが2006年の頭頃。

それも、たまたま学内でDJやっている先輩が、当時よっぽど珍しかったと思うが「 VJやってる」という話をどこからか聞きつけて、声をかけてきた。

そこからちょくちょく神戸のパーティにも足を運ぶようになると同時に、とあるパーティにVJとして参加していくことになる。

そのパーティは、JAZZ/Crossover、プログレッシブハウス、ダンクラetc...とメンバーそれぞれが結構バラバラな音楽性で、その中でもリーダーが異常にスキルが高いことからバランスをとっているような不思議なパーティ。
始めは、今は亡きsparkという箱でこじんまりとやっていたのだが、僕が入るくらいのタイミングで、大箱であるtroop cafeに移籍。

ちなみにsparkという箱は、Underground Resistanceが神戸にスタジオをもっており、そことの関係でちょくちょくお忍びでメンバーがやってくる箱でもあった。当時、Metamorphoseで世界初のGalaxy2Galaxy再現と話題になっていたのだが、50人も入ったらパンクしてしまうような箱にフルメンバーがやってきたことがあるのだから面白い。

一方、その当時のtroop cafeのメインストリームは、ブレイクスとドラムンベース。ローカルのドラムンベースパーティでも週末150人くらい入るような妙な盛り上がりだったのだが、面白いのは純粋たるドラムンフリークではないお客さんが多く、どのパーティにいっても見かけるお客さんばかりだった。そして、DJも客層もとにかく若い。メインで活躍しているDJも上は25歳くらいで、中心は20歳前後。
その上となると、30代中盤の方々になるのだが、90年代半ばくらいに京都を中心に広がったJAZZ/Crossoverの盛り上がりに触発され、JAZZの街神戸を牽引していこうと奮闘されていたそうです。
しかし、思い通りにシーンが定着することはなく、「レコード不毛の地」と揶揄されながらも地道に自分たちのペースで火を絶やさぬように活動していた。

一方の若い世代は、次のシーンを作ることに奮闘し、割と早い時期からCDJやPCへ移行していったように思う。ドラムンベースの盛り上がりが高かったことから、wombとの関係性が強くなり、かなり早い段階からミニマルテクノが次に流行ると予想していたのもこの時期だったと思うし、同世代のDJがfruits clipper発売直後にCapsuleを呼んで、mixiを駆使したプロモーションをかけていくなど、勢いがとにかくあった。

しかし、これは神戸の一つのクラブの話に過ぎない。
では、他のクラブはどうだったかというと・・・風前の灯火・・・
HipHop系の小箱が点在してはいたものの、首の皮一枚でつながっているような状況の箱が多かった。そしてやはりそこから1〜2年で閉店に追い込まれるようになり、小箱が激減していった。
当時、中高生だったtofubeatsが「神戸に今場所がない」と言っていたのは、まさにこういった状況で、中央に大きな広場ができる一方で、幅広く受け皿として機能する小箱が減っていった時期ではあった。

その中で、唯一粘り強くインディペンデントな姿勢を貫きとおそうとしたのが、これまた今は亡きPi:Z
徳島のスケーターショップTAILGATE三木祐司氏との親交を深め、神戸に限らず明石や淡路のヒップホッパーやスケーターの人間交差点として機能していた。
とはいえ、当時の自分には縁遠い場所であり、そういったグラスルーツな取り組みに熱が入っていたことを知るのは、もう少し後のこと。とある須磨に住むスケーターと知り合い、神戸を離れるタイミングで彼が働いていたのがPi:Zだった。その時の店長というのが、大学の先輩であり、僕が顔を出さなかった同郷三重出身でもあり、軽音サークルに所属しており、現在UKカルチャーの伝道師としても有名なphotographerのyokoching氏である。


またこの時期、VJとして参加していた自身のパーティも軌道に乗りつつある中で、とある人物に声をかけられ、映像/デザインユニットとして活動していた時期がある。とはいえ、仕事量はそんなに多くはないが、神戸の飲食店のロゴデザインや、店内BGV制作、あとはtroop cafeの周年で石野卓球氏が初めて神戸でDJすることになったパーティでVJをやったりした。

その時に声をかけてくれた人物が広告代理店へ就職をすることになり、自分も漠然とデザインとか映像の仕事していきたいと思っていた中で、なんとなく広告代理店や制作プロダクションを志望するようになったのもこの時期。

ちなみに、広告代理店への道を誘った男と、先述のスケーターには、谷川俊太郎という共通点がある。
広告代理店への道を誘った男は、とある代理店で谷川俊太郎の刺繍のプロモーションを行う際、マス出稿というオーダーを無視して、紀伊国屋でのイベントを打ったそうだ。だが、そのことに谷川俊太郎氏が非常に共感してくれただけではなく、イベント告知の出稿を持ち出しで行ったことで、さらなる信頼を得たというのだ。当然、単体案件では赤字にはなってしまったが、その後も氏の出版物などのプロモーションは指名になっているとのこと。
スケーターは、ある時に「生きる」という詩に、強烈なバイブスを感じたらしく、mixiの谷川俊太郎コミュニティで「生きる」というトピックを立て、それぞれの「生きる」をテーマにした投稿を集めたところ、とんでもない量の投稿が集まり、最終的にはmixi初の公式出版物として発売されるは、NHKによる取材の元、本人との面会まで果たすなどの大騒ぎになってしまったのだから面白い。

話はそれたが、2005~2006年という時期はいろんな意味で、その後の人生の方向性が付けられていったのがこの時期ではあるが、同時にムーブメントが盛り上がりつつある中でカルチャーが一極集中していく神戸のシーンに少し距離を起きたくなってきたのもこの時期である。


まだこの時期は、自分にとって面白いものがなんなのかは見えていない。

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