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事実は小説よりクレイジー ゼロ年代後半の名もなきクラブシーン 2005年神戸序章

間もなく33歳を迎える。
20代は30代40代へのステップアップだと考えていた。

学校や会社が教えてくれたものは、どれもつまらなくくだらないと感じていた20代。
自分は特別に何かに秀でた存在ではなかったが、学校や会社の外で学んだことに、大きく育てられたと今でも思っている。
しかし、それは自分にとって本当にそうだったのか。

今の自分、そこに20代を過ごした時の面影はもう残っていない。
家族ができて、日々の仕事に追われ、そして、その中で感じるささやかな幸せがとても心地よい暮らし。

20代の刺激的な生活は、今や見る影もない。
あの頃、いつでもすぐに会えるかのように「じゃあ、またね」と言って別れた友達とも、もう何年も会ってない。

あの日、あの時、ともに笑い、泣き、享楽的なその瞬間に全てを注ぎ込んでいた、様々な街の、様々な人々は、ひょっとするとあの日一緒に見た、マンガのような瞬間の中に今でも生きているのかもしれない。

時々思い出す、そんな、夢だったのか幻だったのか、強烈に脳裏に焼き付いて離れない、刺激的な日々が、事実だったことを改めて自分に刻み込むためにも、記憶の一部をここに記す。

特別ではない自分が20代で体験した日常を。



2005年夏。


三重の片田舎から「探偵ナイトスクープ」で見た人情味の溢れる生活に憧れ、神戸の大学に通うようになって1年が経った頃、
20歳の誕生日を迎える直前に、その後の10年を決定づける二つの買い物をした。

一つはターンテーブル。
思えば、三重の片田舎に住んでいたころ、中学生の時に現れたDragon AshのLet your self go,Let myself goの MVでDJ BOTSが操るターンテーブルに一時的な憧れを抱いたものの、その後はオルタナティブロックに染まり、「ダンスミュージックは女子供が聞くものだ!」と根拠のない凝り固まった頭になっていた自分からすると信じられないことだったと思う。
上述の通り、関西の大学に進学したかったのは「探偵ナイトスクープ」のえ影響が一番大きいものの、当時の三重にほど近い名古屋に対するこれまた根拠の薄い反発と、学祭にボアダムスやMO'SOME TONEBENDER、bloodthirsty butchersを招聘する大阪市立大学(銀杏祭)のようなオルタナティブなシーンを求めていたのも事実ではあった。

事実、最初の一年間は、そういった人脈を探すことに必死になっており、大学の中でもそういったクセの強い音楽性の先輩がいる軽音サークルを渡り歩いて、入るわけでもないのに、なぜか飲み会だけいくようなことをしていた。

ちなみに、学内サークルの中で顔を出さなかったサークルには、後々とあるシーンで名を轟かす人物が二人いたのだが、それはもう少し後の話。

そんな中、ある日、とある大学の先輩が、当時神戸のローカルバンドであったmass of the fermeting dregsとのツーマンライブをやることになったというので、神戸のスタークラブに遊びにいった時のこと。
当時、おそらく出たばかりであったであろうpioneerのCDJ-800を使ってバンドメンバーが幕間のDJをしていたのであるが、その時流れていたのが、joy divis Love Will Tear Us Apart。
DJというものをある意味初めて意識した瞬間ではあったのだが、当時の自分にとってはあまりピンとこず、だが Love Will Tear Us Apartのメロディだけは脳裏に強くこびりついた日々が過ぎていった。

当然、自分もバンドをやろうとしていた。
オルタナだったら、ジャガーだろうと、高校時代バイトして買ったfender USAのジャガーにブルースドライバー、そしてファズとディレイ。

しかし、バンドはうまくいかなった。
というよりも、やりたいことが自分でもうまく整理できなかった。
自分のやりたいことを表現する技術もなく、そしてそれを理解してもらおうとすることもうまくできず、それでいて、理解してくれるメンバーを求めることだけしていたことから、どんどん自分が孤立していった。

完全に、自業自得である。


そんなこんなで、もうバンドはいいやと、投げやりになったのが1年の終わり。
その頃、いろいろキツイこともあって、何か気分転換をしなければ、と思い、学内でつるんでた奴らがストリートダンスをしていたので、そのサークルに顔を出すことに。

凝り固まった頭は、完全に斜に構えてたものの、想像以上にストイックで、そして表現に対して自由なストリートダンスのカルチャーに衝撃を受け、DJやっている先輩も近くにいたことから、あれだけ苦労したジャガーもあっさりと手を離し、ターンテーブルとミキサーを手に入れることになるのだった。


そして、もう一つ、時を同じくしてpower book G4を手に入れる。
これも、上述のサークルの先輩が、当時出始めだったfinal cutを購入して映像をダンスの演出に取り入れ始めていたことがことの発端。
昔から絵を書くことは苦手であり、美術やアートといったものに関しても、興味はあっても自分にはできないものだと思っていたが、「これならできるかもしれない!」と思って、飛びついたのである。
そこから映像を作るということ、その面白さ、奥深さ、そして何かを表現し、クリエイトしていくことの楽しさに気づき、その道に進もうと思うきっかけになっていき、結果としては違った方向にはなったものの、今の仕事に進むきっかけにもなったのである。

繰り返しになるが、20代最初の年に購入したこの二つのアイテムが、その後の10年間の方向性を決めた。

まだこの時は、なにもわかっていない


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