彦坂尚嘉論(9)

「一九七○年代の美術とは何だったのか?」という文章で、彦坂はこう書いている。

「一九九二ー九三年にイタリアのボローニャ市立近代美術館で開催された「一九七○年代の日本美術」展、そして帰国記念展として一九九三年に世田谷美術館で開催された「七○年代日本の前衛ー抗争から内なる葛藤へ」展に私も出品しているのだが、その内容は非常に不十分であった。企画を立てて日本に持ち込んだのはイタリア人のバルバラ・ベルトッツィという美術史家であったが、彼女の中には一九七○年代とそれまでの時代の間にある大きな亀裂は全く対象化されておらず、五○、六○年代美術の延長としての七○年代美術としてしか捉えられていなかった。一九七○年代の「美術手帖」や「芸術新潮」などの日本の美術雑誌を通しで全部めくって見るといった基本研究すら全くされていなかった。日本側でこの展覧会を対応したのは美術評論家の建畠哲であったが、彼も全く同じような態度であり、このような認識は同じく美術評論家の中原祐介にもあって「七○年代は何も無かったね」と酒の席で公言するような気楽さを持っていた。拙稿が書かれる理由は、こうした日常的凡庸感覚に従う限り、私が体験してきた一九七○年代の激動の意味は明らかにならないからである。低い凡庸感覚を越えて(原文ママ)、政治・経済・軍事的亀裂を手掛かりに、一九七○年代における巨大で高みのある<文明>的展開のダイナミズムと美術との関わりを、パノラマ的冒険活劇として見せたいという欲望が私にはある。一九七五年には”時代の敷居”があった。ネオダダ・オルガナイザーズのリーダー吉村益信や、一九七○年の「人間の物質」展のアーティストであり、新潟現代美術家集団GUNの作家であった堀川紀夫などが、この”時代の敷居”を超えられなくてうつ病の中に消えていった。美術批評の方では藤枝晃雄を中心に激烈な論争が繰り広げられ、戦後美術批評が死滅したのである。こういう激変を切り抜けて、”時代の敷居”を超えた私には、凡庸感覚の脳天気さに対して認め難い怒りがある。事実は違っていたのである。

彦坂尚嘉/反覆 新興芸術の位相

ここで”文明的展開のダイナミズム”と表現されているものとは、後期の仕事におけるアイコンであり、すくなくとも隠語レベルでは、芸術(村)界の内部言語に深く浸透しているものの源となっている。そのアイディアとは「文明」論による分析である。

<原ー文明> →
<文明>   →
<反ー文明> →
<非ー文明> →
<無ー文明> →…

この「文明論」は、現代アートを理解しやすくするためのものであり、そのほとんど純粋形態としての極度の「よわさ」には、その他のアーティストには到底およびもつかない、圧倒的ポピュラリティがあった。

うがった見方をすると、この「文明論」は、体制破壊的な理論として見ることは可能かもしれない(事実、筆者もモロに感染した若者の一人であった。彦坂と直接、間接に接する時に、その可能性は常に留意する必要があるだろう。並外れた人物の影響を受けた場合、それを払いのけるのは並大抵のことではないと感じる)

もっともこの理論、そこまで革新的というわけでもない。歴史の推移とともに人間理性が仮象を作り出しいくつかのタームを経て反復(回転)するというカントが提出した世界観とも似ているし、フーコーをはじめとした「人間は何らかの社会構造に支配されており決して自由に物事を判断しているわけではない」と考えるポスト構造主義を連想しないわけにはいかない。

「約7年ごとに言語ゲームは変わる」と主張する宮台真司ともダブるし、デヴィッド・ボウイにとってはそれ自体が生きるモチベーション(僕は大河がサイズを変えるのを見ている/Changes)である。またGベイトソンの「演繹推論」にとっては、それはある対象について、どれだけそこから多くの事(=言葉)を言い表せるかである。

<続>

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