天才と諸刃の剣(2)

一昨日やった野球の話の続き。

ポジションはピッチャーだったのだけど全盛期は千代田区軟式野球の大会で先発を任されていた。ピッチャーなので当然毎日のように走ってたし週末はわざわざ総合運動公園にまで出向いて遠投やスクワット、ダッシュもしてた。トレーナーに正しいスクワットのフォームをチェックしてもらったりして(わりとムズい)。陸上競部の女の子たちからジロジロと怪訝な目で見られているのに耐えながら。

それがサラリーマンをやめた途端そのいっさいをやめてしまった。しばらく糸の切れた凧のような精神状態になってなにも手につかなかった。それからというもの鬱じゃないがあれこれとおもい悩むことが多くなった。あたまが混濁してわけわからんまま東京を彷徨っていた。

すげぇツラかった。あらためて「野球」と「走ること」の2つが自分にとってかけがいのないものだったのだなと痛感した。たまに元野球選手がやらかしてニュースになることがあるが私はそういう人たちを笑うことが出来ない。むしろ痛い程わかる。心にポッカリと穴があいて「人生」という漆黒の闇を直視しないといけなくなる。

では再びあのジョギングとトレーニング漬けの日々を取り戻せばいいのか?というとそれはそれで違う気がする。いずれにせよ元通りにはならないし。なおイチローはいまだに日々のトレーニングを続けているらしい。その動機はたんなる変人の欲求というよりかはもっと深刻で抜き差しならない事情が隠されているような気がする。

あたりまえだけど天才的なアスリートの脳は普通の人間のそれとは違う。読んで字のごとく”出来が違う”はずである。普通の人があたりまえに日常を過ごすように出来ていない。つまりイチローはトレーニングをやり続けないと自分の脳が壊れることを予感していて本能的にそうせざるを得ないことに気づいていてそうしているんじゃないか?と思うのだ。

野球は知性の総合格闘技である。たとえばピッチングの場合は全力で投げたボールをキャッチャーの構えたミットに入るように制球する必要がある。これは振りかぶって投げるまでの数瞬間、世界がスローモーションになるような研ぎ澄まされた時間感覚がないとできない芸当である。

野球選手の脳は人一倍透明な認識力のレンズをもっている。だからこそたまに引退したあとに「おかしく」なる人がでてくるのではないか?トレーニングをしなくなって脳のバランスが崩れて現実を生きることが難しくなるのではないかと推測している。

今年に入って私は超早朝から正午までのハードな肉体労働を始めたのだけど人生に思いがけない転機が訪れた。ここ11か月くらいずーっとスーパー元気モリモリなのである。

運動は心のカンフル剤だ。

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