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非/表現論#3|価値合理性

「価値合理性」とは何か?

もとは20世紀の碩学マックス・ヴェーバーが提唱した概念で、

人間の行為についてはおおまかに4つに分類することができると主張しているのである。

価値合理性2

ヴェーバーは「合理性といっても、2つある」といっているのである。

ひとつは「目的合理性」、これが一般的に社会で言われているところの"合理性"であり、目的を達成するために最適な手段なり行動を採ること、である。

世には「ロジカル」なる言葉があるが、あれも要するに目的合理性である。物事の本質をとらえ境界をはっきりとさせる力、とも言い換えられるだろう。

対して「価値合理性」は、きわめて説明がむずかしい。ヴェーバーは「ある価値にそった選択や行動が、その人間の理性にかなっていること」といっているが、ぶっちゃけ意味不明だろう。

ネットで検索すると「価値合理性」についてあれこれ説明しているサイトがヒットする。

マーケティングサイトとか経済学の教授のブログとかで、ある程度は正しい解説なのだろうが、引用するのは気が進まない。どれも「永遠性の価値合理性」について、説明を与えるにはスケールが小さいしピントがボケているからだ。

そこで俺は、ヴェーバーの概念にちょっとだけ手を加えた。

価値合理性3

いわば”アートバージョン”のマトリクスである。

カッコ書きを追記し非合理は「具体性」、合理性は「抽象性」とする。青い丸ゾーンの説明の部分も俺が書き加えた。

まず<価値合理性>を理解するには、斜迎えの対極にある<伝統>について理解する必要がある。

伝統とは"原理原則"にそって行動することであり、ミクロ的視点をもとに物事や概念を取り扱いきっちり整理することだ。

「故事」や「規律」や「信仰」が全てともいえ、つまるところ原理主義である。

大半の古代人の生活様式は、このゾーンに属していたと思われる。現代でもたとえば、社会を無視して自己流のルールや、ある種の啓蒙、カルト宗教の原則で生きているような、いわゆる”困った人”も該当するだろう。

これらは「価値」ではなく「欲求」であるとヴェーバーは言っている。

では改めて「価値合理性」とは何か?

上記を見て分かる通り「ミクロに対するマクロ」/「信仰に対する普遍」である。また隣にある「目的合理性」とも方向性が異なっている点にも注意してほしい。

すなわち目的合理性の「物事の本質をとらえ境界をはっきりとさせる力」とは逆方向に作用して、

「物事の境界をなくしてひとつにしていく力」となるのである。アトム化してバラバラになった人々を一つにする力ともいえるだろう。

これこそが「価値」ということになるのだ。

以上が「価値合理性」の説明である。次にこの概念をもとに「永遠性」を論じる。

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