1世紀後の想像力
いいあって、良い感じにする。
こういう智慧がすっかりなくなってしまった、今日の日本人だ。
かつてはこの国にも、議論しつつも、和やかな雰囲気を作るのも忘れない、ある種の智慧があった。「和をもって尊し」って言葉もあったし。
周知のとおり、リアルでもネットでも、議論はどこそこで起きているが、しかし、そのことごとく、相手との一致点を探したり、議論を深めたり、知識欲を掻き立てたりするものではない。
結局はただ他人を利用しようとするものに過ぎず、「和」を欠いている。
なにも私は言葉による暴力を全面的に否定するわけではないが(議論とは本質的に格闘なのだから)それは建設的なディベートのスキルと実践ありきの話であろう。
つまり、議論の内容や解像度、云々じゃあなく、そもそもの話、論者・識者のどいつもこいつもメンタリティが重症の病に侵されている。
その結果として(一方で)沈黙を守り、意味のある議論を放棄する態度が蔓延することとなってしまった。
沈黙を守る。あるいは、いたずらに無関心・無関係を意味づけてしまう言説。これが常態化した。
だがしかし、
言葉巧みに自己と他者を区別し、メディアはあくまで所謂”自分教”の布告として活用するに過ぎず、
通常でいわれるところのコミュニケーションの物理的時空間は、穏当にキャンセルする…
そんな人生を送ってしまうのは、どうなのだろうか。
志を同じくする人々とは友好的に接し(それも一時的なものに過ぎない)、なじめない人々には軽蔑の念を抱き、表面上は一定の関与を保つ…
あるいは…
露骨に「愚か者」扱いする。
もちろん、こんな姿勢は、形はどうであれ一種の欺瞞にほかならない。
時間が経つにつれて個人の殻は強化され、必然的にみずからが自分の領域に閉じ込められ、力の衰えと共に他者にも見放され、
さびしい人生になるのは火を見るよりも明らかだ。
立派な肩書をもった批評家先生でも、この運命は免れない。
相手が「パンピー」なら、「当て擦り」して「嘲笑して」「斬り捨てる」のが、ざんねんながら「慣行」となってしまって。そのことを深く恥じ入るべきではないのか?
本当に必要なのは、ものごとを解像度高く論じる技術ではない、そんなものではなく、
議論する心だ。
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