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しっかりしているのか、ボケているのか

人生とは、科学がどんなに進歩しても、完全には説明できないものだ。もし誰か科学的知見に従うことが幸せな人生につながるなどと、のたまっている輩がいるとすれば、即刻ペテン師といわねばなるまい。22歳で就職し、30歳までフルタイムで働き、30代前半に結婚し、子供を産む。この時間帯に従うことが最近の幸福の科学らしいですよ。YouTubeでチャンネル登録した人たちがおしゃべりするのを眺めていると、なぜみんなそんなにも人生のサイエンスにこだわるのか?みんなクールになろうと頑張りすぎている。かっこつけんなよって言いたくなる。人生は、いいときもあればわるいときもある。すくなくとも、わたしにとっては、人生はいつも敗者復活戦だ。

世の中には、持っている人と持たざる人がいて、後者がいくら頑張っても前者には勝てない。このことは、いい大人なら、皆わきまえてる。実際に肌で感じはじめるのは、どうだろう、おそらく思春期以降、中学生頃だと思うが。発達と共に、自己と他者との区分が明確になるにつれて、凡人と秀才、非モテとコミュ強、ブスと美女、メンヘラと健康優良児、等々の諸々の格差、偏見やスティグマが顕れはじめる。考えてみれば学校というところは、箱庭のなかで子供たちに格差を教えているようなものである。

まことに残念なことだけれども、この資本制の世界では、競争原理、勝ち負け、格差を中心に据えた考え方から解脱するのは容易ではない。さらに今日日、資本主義と科学、加速主義が魔融合を果たしたようなもので、常にスピードが追求される。ほぼ毎日リリースされるビデオゲームを嫌々やらされて、新しい課題に直面し、常に適応する必要があるようなものだ(むろんそのような最適化を峻拒し、田舎に引き籠る、等の別の道もあるにはあるだろうが)最近ちょっとだけ話題のウェル・ビーイングについての議論も、かのような厳しい社会的課題が反映されているようだ。

おもうに、ウェルビーイングという点で完全無欠な存在とは子供たちであろう。子供は毒されていない。いつ頃から毒におかされるのか?といえば、だからそれこそ学校なのだ。子供は学校で「考エル・我アリ」を叩きこまれるが、教育課程を修了してなおも、この任を解かれることはない。なぜなら、現代の社会と経済は”考える人間”なしには機能しえないからだ。爾来、死ぬまで発達は続く…のだけれども、子供のときにくらべればそれほど劇的な変化は起こらず、あってせいぜい損得勘定のアップデート止まりではないだろうか。ほとんどの人は、歳をとるとともに、こすくて、いやらしいおじさんやおばさんになっていく。加齢とともに魂年齢までもアップデートできている人は稀である。

藤井聡太が子供将棋大会で敗れ、涙を流している写真は、多くの人の記憶に刻まれているが、あれを見て、ひとしきり物想いに耽っていたことがある。体液を体外に放出する行為(排便であれ、泣くことであれ)は、人が感じることのできる最大の快楽とも言われているが。あるいは、そのすべてを同時にやることは可能だろうか?とか、つい夢想してしまう。子供にとっては敗北さえも一種の喜びである。子供は何事にも恐れずに立ち向かう。負かされれば負かされるほどに、泣けば泣くほど成長する。しかし人は年齢を重ねるにつれ、次第にかつての童の心を見失っていく。

さて負けのテーマで話は続く。営業マンをやってた頃、上司に「お前は負け癖がついている」と言い放たれたことがある。彼は恐ろしいほどに優秀な営業マンで、在職中、かまってくれることはほとんどなく、まともに口を聞いてくれなかったのだけど、ふとした瞬間にポロっと、そう声をかけてくれたのだった。酷薄な男のほんと一欠けらだけ残っていた教師根性から出た、ありのままのギフトだったような気がして、ずっと心にとどめている。

そのときわたしは、負けっていうのは煎じ詰めると癖が原因なんだなと、悟ったのだ。どうも、誰だってなにかしら自覚がない行動の癖があって、そこに気づかれないままに、その人の運命を決めてしまう。つまり主体的意思決定なんぞは幻想に過ぎず、あるのは、癖のよしあしだけということ。女の子とランチデートをしている最中、その子が突然、「ねえ、食べ物の好みと、お金の使い方、合うとしたら、どっちがいいと思う?」と聞いてきたとする。ニコっと笑って「両方っしょ」と即答するのがモテる男というものだ。

じゃあ、このスケコマシが実際に毎日いろいろなことを考えているのだろうか?といえば、おそらくそうではない。彼にあるのは(長年のコマシ人生で培ってきた)良い反射神経だけである。勝つのか負けるのかなんてものは、本能というのか、それとも潜在意識というのか、つまり、身体にしみついた癖で決まってしまう。

成熟した、とされるオトナな人々は、理性的で冷静で節度ある判断力を持つことが期待されているが、実際はといえば、いい歳した大人でさえも、自分が信じたいものを信じている場合が少なくない。こうした信念は頑固で独善的で、カルト的なイデオロギーよりもさらにたちが悪く、個人的な教義に近いものがある。この"個人的な教義"=自分教を信奉する人々は、しばしば、ちょっとこわいほどに純粋性を保持しているが、そのため(あくまで彼・彼女らのオカルト基準から見ての話だけど)”不純”と認定するやいなや、ヒステリックな、凄まじい嗜虐性を示すことがある。

いうまでもないことだけど、認識にトータリティが欠如している者の、その多くは(本人の自己満足がどうかは別として)社会的に敗北することになるだろう。世間はトータリティのある者の肩を持つものだから。しかし、特に認知に歪みが生じている時期は、誰もが、そのような状態に陥る蓋然性がある。恐ろしいのは、当事者が自分自身は正常だと、認知の歪みがないと思い込んでいることである。

貧すれば鈍する、という言葉がもっと広まればいいのにって思う。認知の歪みの核心に貧困があると、わたしなんぞは考える。いままさに、誰かからハラスメントを受けている人、劣等感が強く自分で自分を苦しめてしまう人、社会から疎外されている人、思うように職にありつけない人…認知の歪みは、環境により簡単に生じるものであるため、どんなに優れた才能を持つ人であっても、一度困難な状況に直面すれば、その認知は歪みやすい。現在は、その歪んだ認知に付け込んでビジネスを展開している者やら、インフルエンサーやらであふれている。自分自身がネガティブな状態になっている時に、「ああ、今、自分の認知は歪んでいるな」と自覚することができれば、まだ救いがあると言えるだろうが。

近頃ウェルビーイングが取沙汰されているのは、ありていにいって、認知が歪んでいる人が、あまりに増えていることの証だろうと思う。「この人、どうせ10年後も同じこと言ってるんだろうなあ」という感じの人…いわゆる老害ばかりではなく、20代後半くらいの若年層にも、この手のやからは少なからずいるのだから恐れ入る。ネットには、やたらと好戦的な、おかしな人たちがいるが、その多くは、機嫌がいいときはおべっかを使い、かと思うが逆上して危害をくわえる、というような、メンヘラというのか、なんとも面倒な主体たちである。彼らは、いわゆる自分の正義を他人にぶつけて、それで済むと本気で思っているのだろうか?

自己の正義感を過大評価している人たちは、自分がいかに厄介な人物であるかを自覚しない。個人的には、その煩悩まみれな魂に、ほんの少しだけ同情する気持ちもないではないが、彼らの粘着やアンチ行動を受けとる側、反対者にとってみれば、いい迷惑である。そのふるまいを観察すると、ひょっとすると、こういう人たちの多くは「若者的精神」を捨てきれなかったおっさんなのではないだろうか?と思う。だからこそ、ネットで暴れることで若さを誇張している…?わたしは経験豊富な人に説教されるのはかまわないし、むしろ積極的に聞きたいくらいだが、まだ自分のことを若いと妄想している倒錯した中年にピヨピヨと絡まれるのは御免である。

思うに、そういう人ほど、その莫大な煩悩エネルギーを使ってクリエイターに転身するべき、あるいはせめて一心不乱に自分の仕事に打ち込むべきであるのだが、そのような反省性が望めない、見込めない点にこそ、事態の深刻さがあるのだろうと思う。彼らは単にネットで他人とおしゃべりをするだけで(えてして、特定した何者かを利用しようとし、エネルギーを吸い取ろうとするだろう)、高く跳ぶ機会を待つだけだ。

人の心は信念によって形成される。わたしは「認知の歪み」の観点から述べたが、なにもそのことを病気だと言いたいのではなく、思い込みに囚われるのは人間にとっての本能であり、全き自然状態なのである、ということなのだ。今では「左利き」は矯正しなくてもよいものとなっている。しかし数十年前は、そうではなかった。「左利きは甘え」という風潮が確実にあったのである。これだって「思い込み」と言ってよいだろう。この左利きをよしとしない思い込みの感覚とは何だろうか?かみ砕いて言えば「みんな右利きなのになんで君は左利きなの?協調性ないな」ってことだ。よしんば、たんなる思い込みだとしても許すまじ、と。

サラリーマン時代、呑みの席で上司に突如、野球の話をふられたことがあった。「お前、どこのファンなの?」。まだ新人だったわたしは「巨人であります」とハキハキ答えた。となりに座っていた同期は「私は、特にないですねぇ」。社会人ならお察し案件だろうがわたしのこの受答えはNGである。ウルトラクイズの泥の方に盛大に突っ込んでしまったのである。対して、同期は正解。呑み会が終わるとすぐに上司はこの同期君を引き連れて歌舞伎町へ。わたしは誘われなかった。以降この上司からは「世間知らずのバカ」の烙印を押されずっと冷遇されるはめになったとさ。いったん他人からレッテルを張られると挽回するのは難しい。

どうも人間にはざっくりと二種類のタイプがあるように思うようになった。
一つに言葉を重んじる人がいる。もう一方に、目の前にある実体を重んじる人がいる。この性質の違いは生まれつきらしい。前者の、殊に言語的才能が豊かな人はえてしてなにか具体的な物事に出会うと上手いレッテルを鋳造して対象に張り付ける。そうしない限りけっして納得しない。メディア全盛の今の世ではこの種の人が大勢いる。世の中のありとあらゆる出来事を言語化して、自己の論理の中に位置づけないと気が済まないのである。

これは確信犯というより、たんに脳の”癖”みたいなもので、治しようがないらしい。問題なのは、ある限定された言語空間の中でレッテルが乱発乱造されると言葉が実体を離れ、事実の裏付けもなく独り歩きすることである。やがてその集団に共有されるところの概念、「レッテル」は化け物のごときものに豹変しひとりでに暴れはじめる。いったんそうなれば誰も止めることはできない。これもある種のバブル(正確には”流言飛語”だが)といってもよい気がする。しかもでっちあげた本人(達)は一切悪びれない。

過去の自身の発言を持ち出されて追求されても優れた弁論術でのらりくらりと批判をかわす。いずれにせよ口から先に生まれてきた人間にとっては、この程度の芸当は造作もないことだ…かような”言論サディスト”たちの華々しい活躍(?)をしり目にかけて地道に生きているのが実体派の人々である。アカウントは登録しているが投稿は年に数回ほどで内容はお盆休みの様子とか。ひたすら地味な存在だ。だけど私的な独自の統計では、異性に持てたり、いわゆるリア充なのはこちら側が多という印象がある。

まだ年端も行かない小さな子供が大人よりもよほど”大人”な顔を垣間見せて驚く瞬間がある。江國香織の「神様のボート」は、魂が幼いまま止まってしまっている母と、成熟しているその娘を描いているが、あらためて今日的な作品だと思う。”DQNの川流れ”ではないがパッと見どうしようもないようなアホアホな親の下に生まれた子供が、親の精神年齢をも受け継いでしまうのか?というと、個人的経験から言うと必ずしもそうではない。

いざその子と話をしてみると彼自身は醒めた眼差しで自分の父母を眺めていることが感じられて「うーむ」と唸ることがある。その子がアホ親を反面教師にして成長しただけなのかあるいは、実はアホ親じゃなくて他人からは窺い知れないような子育ての智慧が実践されていたのか?ひとたび大人ではなく子供にフォーカスしてみると、目から鱗が落ちる。

子供の世界は意外性の塊だ。此の親にして此の子ありだなんて軽はずみに言うべきではない。何故なら親(大人)は文化(属性)で大方説明がついてしまうものなのだが、子供についてはそう簡単には筋が立たないからだ。子供には子供にしかわからない内面が広がっていることを忘れてはならない。これは決して重箱をつつくような態度とは言えないはずだ。小学高学年にもなると普通の大人なんぞよりも賢いって子が、たまに出てくる。

賢い子供は人を見る目もあるしものを見る目もある。むかし芸能界にいた時に、子役の卵と密に接する機会があったのだけど。共演した際、楽屋で10歳くらいの子に「君ってエゴの塊だよね…」と呆れられたことがあるが、いまだにその言葉が忘れられない。だってその通りだもの。子供は大人よりも無意識との垣根が低く距離が近いのだろう。

子供なんてくだらない。
子供はわかりやすい、
子供は浅はか、
子供は余計者、
子供はバカのくせに計算はする

見下したい人間(敵)を特定しては仲間と一緒に「あいつはまるで子供だ」と蔑む。社会人になるとどこそこで遭遇する陰惨なワンシーンである。自分の思い描いている歪んだ世界から”子供”を排除したい。そのような心性が働いているのだろう。子供だって社会人経験がないだけで大人顔負けに判断できるのに。この大人の負の側面をおもいっくそ濃縮してしまった末路が、今日の日本であるような気がしている。

ここ数年ですっかり社会に蔓延した、「レッテル貼り」という悪魔の仕草。「カルトの家の子もカルト」、「キラキラネームの人間はろくでもない」「あの地域の住民はゴロツキ」とか、より直截には「嘘吐き」とか、いい歳して、くだらないことを平気で(仄めかすような嫌らしい表現で)、お互いがお互いに向けて言い合ってる。これは”子供らしい”のではない。むしろこれこそが”大人らしい”のだろう。レッテル貼り本質は”子供扱い”である。

みんな無自覚に差別し、差別されることを恐れている。もちろんわたしだって例外ではない。油断するとすぐに排他的にふるまってしまう。良い意味で「自分は自分、他人は他人」を使いこなすことは難しい。へたをすると大人よりも、中高生のほうがちゃんと使いこなしていたりする。

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