見出し画像

詩は«ヴィジョン»である

私は«詩人»を名乗るほど、自惚れるつもりはないが、職業として詩を書いている人々の作品に、まともに「詩」が成立しているのか?…

例えば某詩誌は「ここに掲載されているのは詩です」と宣言しているワケである。
しかし所詮「プロが判断しています」というだけのことであって、そのロジックや判断の成立根拠を問われるところでは、限界に突きあたるのである。そもそも「プロ達」においてすらも、何が優れた詩であるのかの意見が違う。

このような「体制」に反旗を翻し、より「民主主義的」に何が詩かを決めようではないかと、ネットの「詩投稿サイト」が生まれたのだろう。もっとも、これはこれで、その試みに一定の評価はできるとしても、詩誌との明確な差異化があるのかというと、ハッキリしない。


ネット詩の問題

ネットに«詩»があふれている。

その大半が誰かのエピゴーネンであり、近代詩の「様式」を「なぞっている」だけか、あるいは「もてあましている」だけの、落書きのようなものに終始しているのは、なんだか残念なことである。
どれもこれも”今風”な言葉で紡がれただけの、ちっとも新しくない詩であることが、残念なのである。

以前私は、「詩とは圧倒的に気分」が重要な表現様式であり、「そこから横溢する感染力」が核心であると書いた。

この詩論の構成要素として、ひとつには1920年代のモダニズムが大きいが、もういっぽうに萩原朔太郎の存在がある。
すくなくとも日本では、それまでの近代詩が拘泥していた「様式論」の隘路から脱却し、日本語独自としての«詩»を再構築するには、朔太郎の登場を待たねばならなかった。
かような基本的な事柄を踏まえて「詩の紋切り型」を廃棄することが、創作の最低限水準である。

日本語のポエジーを考えるとき、近代詩以降の「現代詩」は、短歌や俳句に抑圧され続けている。
…という大前提が荻原朔太郎以降にあって、むろんこれは詩(史)論などでは、ずっと言及されていることである。
カマトトぶっているが、最果タヒなどは、そういう意味ではきちんとした「プロ中のプロ」であって京都大学卒のインテリだ。

対して、最果タヒの足元にも及ばない「ネットの詩作者」たちは、いまだに詩に夢を見ているようだ。厨二病が「夢を捨てられない」病だとしたら、殆どの詩作者にとってのまさにそれが「詩」なのだ。一方で石原吉郎の模倣みたいな詩がいまだに特選になったりするので、現代詩手帖も十分に胡散臭いのであるが。

くりかえすが本当に詩を書きたいのならば、さっさと詩を廃棄することだ。


詩人の人格について

ちなみに私は、かねてより日本の詩人の王は高浜虚子だと睨んでいる。
彼の高名な言葉に「俳人は100人中1人だけがものになり、残り99人はその1人を生きるよすがとすればよい」というものがある。
虚子という人はウンザリさせられるような悪人だった。しかし虚子に限らず、詩人というのは本質的に悪人なのかもしれない。

若い頃から、詩に惹かれてきたが、14歳の頃、国語の便覧にのっている詩をいくつか読んだのが、原体験だったかもしれない。
多くの日本語の詩人たちのメンタリティのそれは、私と類似していると勝手に思い込んでいる。
中原中也や石原吉郎がまさにそうだ。種田山頭火や河東碧梧桐もおそらく。こいつらは、どうしようもなくこらえ性の足りない、アダルトチルドレン達である。
だからだろう、彼らの詩集のページを開くと「パンっ!」とまっすぐ心にはいってくる。
その傍らで「大人」の系譜というものもあるのだ。それが高浜虚子。私にとって虚子の文学はむずかしい。
伝記などを読む限り、欲望に素直で、相手を失敗させて自分は成功する…そのような人だったと思われるのである。

私は、救いがたく自意識過剰でプライドが高い人間なので、ヒトカドの人物になりたいという想いは強く一方で、どうしても勉強が嫌いなので、結局何も、ものにすることが出来ない、という確信があたまに浮かんで、常に落ち込んでいる。
どんなに優れた資質をもっていようとも、勉強してないやつは、屑であると断言できる。(勉強しているから素晴らしい人間であるとは限らないが)

詩人のランボーが好きで、なんでかというと、たいして勉強もしないで歴史に残るような詩を書きやがったからだ。いや、もちろん彼のパンクな生き様だけではなく、作品自体も好きなのだけどさ。
話を戻すと、そのうちに一つのねじれた意識というか、奇妙な哲学的命題をかかえこむようになった。
私は勉強が大嫌いだ。だけど、本当は勉強したいのだ。どうする?
...という愚劣な「問い」である。(勉強しろやボケ!という突っ込みはナシでお願いします)
とどのつまり、私の生はこの問いに応えるためにある。


詩の真剣さ

いちごつぶしておくれ
つぶせるいちご
みんなつぶしておくれ
しもやけのような
さむい夕焼けへ
みんなそっくり
つぶしこんでおくれ
しゃっくり出ても
つぶしておくれ
泣いても
じだんだふんでも
いちごつぶしておくれ
ジャムのように夕焼けを
背なかいっぱい
ぬりたくられ
おこってどこかへ
いってしまうまえに
いちごつぶしておくれ
いちご
つぶしておいておくれ
(いちごつぶしのうた/石原吉郎)

戦後詩の完成者は谷川雁だが、戦後詩の大スターといえばダントツで石原吉郎である。
石原には「秘密」があって、たとえば復員した後に社会にうまく適用できずに、ひどく悩んでいる。
谷川俊太郎らに発見されて「サンチョパンサの帰郷」がヒットしなかったら、戦後社会に見切りをつけて、さっさと自殺していたのかもしれない。たまたま少しの間、生き延びたが、けっきょく死因は自殺だった。

伝記「望郷と海」によると、友人たちに「今日はナイフで腹を3センチくらい刺してみてね...」などと真顔で言って絡んでいたりと、あの大人しいペンギンみたいな顔に似合わず、本気とかいて<マジ>のキチガイだったのである。石原の美質はあきらかに「自殺」と切っても切り離せない。この「いちごつぶしのうた」は「水準原点」に収録されている、好きな作品。

「水準原点」までは、石原のラーゲリ体験による「心の傷」の影が残っていて、つまり歌いあげる「対象」があるが、以降の「北条」では、対象が不在となり、日本の伝統美、様式美が主題となる。作品の末尾には、遺書というほかない作品が書かれてある。

たったいっぺんも悪いことをしなかった
アリラン爺さんが病みついた
雨の降る日はしがない渡世に理屈をつけろ
貧乏くじはどうだい?
貧乏くじはどうだい?
どこかの後家よ
どこかの後家よ
あたしのあそこいらないか?
おっかあに逃げられた仁義に妙に大きな
耳までが昨日と今日の算盤をはじいている
よしんば明日を占い
アリラン爺さんが死んでも
人夫には勲章は無く
軒下三寸に雨が降る
(雨の日/高木護)

高田渡の名曲であるが、これも大詩人の作品なのであった。高木護。

石原吉郎と同じく、ハードコアな戦争体験者である。自分はどうも戦地から命からがら帰ってきたという話に惹かれてしまうのだが(詩人ではないが中内功とかも大好きだ)、

この「死線を超えた体験」というものは、詩に限らず、表現者にとっては決定的な性質を帯びるのである。

私の伯祖父はシベリア帰りの人であった。戦後、すでに墓まで作っていたのに、ある日突然ボロ雑巾のような姿で帰ってきた。それから戦死した兄の奥さんと再婚して、公務員として平穏に暮らしていた。

子供の頃、正月やお盆など、節目には必ず挨拶しに行っていたのであるが、関東軍の兵隊だったこと、シベリア抑留のことなどの、話せる事はいくらでもあった筈なのに、ついぞ耳にすることはできなかった。家族にすら一切話さなかったと、伯祖父の葬儀のときに聞いた。

話したくとも、体験が壮絶すぎて、うまく言葉にできなかったのだと思う。普通の人は、そうやって黙り込んでしまうのだ。

もう一人触れずにはいられない詩人が、泣く子も黙る谷川俊太郎である。

「谷川俊太郎が好き」な人には二種類いて、まずある程度詩をたしなむ人、そして、そのほかの詩が分からない「詩盲」の人々である。

同世代の詩人と比べても、ほとんど手合い違いの、冠絶したテクニックと言語能力を持っているが、と同時に、その膨大な作品のどこにも歌われるべき「対象」を見出せない。ゆえに、この人と、荻原朔太郎や石原吉郎らとを同日に語ることはできない。

谷俊は、熱狂的な「モノ」への偏愛を告白していて、その関心は家電であり、車であり、アマチュア無線にプラモデルと、いろいろなアイテムに及ぶのであるが、インタビューで、ほんとうに子供のように嬉々として語っている。
この無垢性と、何べんも奥さんをとっかえひっかえする女性遍歴は、表裏一体なのではなかろうか?、少なくとも、トロットロのロマンチストなんでしょうね。名声により過剰に膨らまされているが、その実像は真性の詩人ではなく、ヴィヴィッドな俗物詩人でないかと思う。

しかし唯一「コカコーラ・レッスン」の頃の作品群は、なかなかコクがあって、良いのである。とくに同時期に発表された「タラマイカ偽書残闕」は谷俊の最大傑作である。

いずれも、奇妙で空虚なのだが、こんなカッチリしたものも書けてしまうのか?という驚きが先にある。天才だから、軽~く書けちゃうんでしょうけれど...

ちなみに今売れっ子の、川上未映子っていう芸能人みたいな作家がいるが、
もう十年くらい前だろうか、NHKの番組でゴッホをテーマにした詩を朗読しているのを、たまたま見かけて、
それは「おお、ゴッホ、めっちゃ頑張ったんやな...(泣)」みたいなポエムで、銭湯のテレビにむかって思わず「なにがゴッホじゃ!」と罵ったことがある。以来、売れてるらしいが一冊も読んだことがない。


詩は«ヴィジョン»である

かつて「詩は散文である」と言った思想家がいる。
ぱっと見、何を言っているのか、ちょっとよく分からないが、言葉を眺めているうちに、たしかにそうだよなという気になってくる。この短い言葉には、詩を書く、という「意志」の不可欠さが示されている。
すくなくとも私にとっての«真性の詩»とは、中原中也でも、石原吉朗でもない。ましてや谷川俊太郎なんぞには、不足感があるのみだ。
私にとっては、孫文が書いたアジビラや、南北戦争中のリンカーンの演説、レーニンの党の理論などにも、むしろ強烈な「詩」という感じを受ける。
強固な詩的決断というものが、文学を超えて、あり得るのだ。

聖書を傍に作品を書きたいという欲望は、文学の世界では馴染み深いもので、日本なら太宰、最近だと古井由吉、海外ならそれこそ挙げだしたらきりが無いほどだが、
多くの作家たちをとらえて離さず、かつその大半の挑戦を退けてきたのである。トーマスマンの「ヨセフとその兄弟」等は、まさにその典型例といえる大部の駄作である。
わりかし上手くいっているのは、ロレンスの「死んだ男」とか、あと太宰の「駆け込み訴え」や古井の「楽天記」も悪くないが、如何せん短すぎる。
ともかく近代以降の文学者にとって荷がおもすぎるモチーフであることに違いないが、それでもあえて一指折るに値する作品を挙げるならば、Eウィルソンの「愛国の血糊」だ。

⇒「愛国の血糊/Eウィルソン」について:南北戦争は、アメリカにあった2国間の決戦戦争である。人類史上はじめての近代戦の酷薄な様相と、そこで活躍した英傑達をはじめとして、北部と南部の黒人奴隷制をめぐる対立は後づけであること、そして黒人と白人(農園主)との一筋縄ではない関係性、等の歴史の裏にある複雑な綾を、当時の文学作品や書簡、アジビラなどの膨大な書物のモザイクから鮮明に浮かび上がらせる。もっとも、これだけなら他にも類書はあるだろう。この本と凡百の類書とを決定的に違わせているもの、それは著者が断固「詩」の側について、賭けている、という点につきる。

自分のアメリカ観は、この本によるところが大きいのだが、そこにはアメリカ白人の、世界観、宗教観、ものの見方について、参考になることがたっぷり書かれている。

で、トランプの話をちょっとすると、あの一連の事件はアメリカの歴史から見ると、「ちっちゃさ」感をぬぐえない。民主党のウルトラC選挙戦術も、「さもありなん」という気しかしない。
トランプは、ルーズベルトのように、司法や軍部の弱みをきっちり握って、政界に君臨するような、本当の「独裁者」ではない。一部の人々から好まれるのは、この「弱さ」ゆえである。トランプの判断力も世界観も、欠点だらけだった。目の前のことしか見ていなかったのである。

トランプ政権中は、ほとんどの左翼、リベラル、アーティストが「黙認」という態度をとっていた。つまり最弱の態度で臨んでいたことになるが、ではトランプに「熱狂」を受け入れる«ヴィジョン»があったのか?というと、甚だ疑問なのである。

なお、この知識人たちの「黙認」の意味にしても、二段階に分けて考える必要がある。まず第一に、トランプ政権初期に「これは一過性の現象に過ぎないのだから、彼が自滅するまで間、やり過ごせばいい」という判断があった。

次に、例の大統領選挙の一連の騒動である。この選挙でトランプは史上稀にみる投票数を獲得した(私は陰謀論に与する者ではないが、これは事実なので指摘せざるをえない)その過程でQアノンのような、トランプ膝下の影響工作に感染した者たちが大量に出てきた。

この過程において、知識人たちの「黙認」の意味も変わってきた。いわゆる「二極化」の問題が、乗り越え不能な”呪い”として再確認されたのである。しかし、歴史を振り返ると、この二極化構造は一瞬にして氷解する性質のものであると、私には思えるのだ。20世紀のファシズムの歴史を見よ。

してみると、もっとも深刻であると思われるのは、現代のインテリも大衆も(そしてトランプすらも)同様に「美学がない」ことであろう。Qアノンみたいな馬鹿にしても「僕達はファシストじゃない!」と一様にいうのだから救いようがない。

トランプには(その初期においては)確かに未来を感じさせるものがあった。トランプが本心で思いえがいていたことが何であったのか?それは私にもうかがい知れない点も数多くあるが、冷静に見ると、じつはマッチョな「タフなアメリカ人」像という感じは見当たらなかった。

民衆がトランプに託したであろう、かつてアメリカが謳歌した野蛮な「自由」と「理想」の復活は、幻想だったのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?