ケーキの切れないプーチン

今日日「多様性」について誰が何を語りうるというのか。

「多様性」というコトバはじつに便利である。便利ゆえに困るのである。ずっと意味が変化している。変更はいまもなお継続中である。その帰結として、各々が好き勝手に解釈し公言している。今日。仮に、最も大きな意味での「多様性」を語りうる適任者がいるとして。おそらく知識人や作家ではない。マイノリティの”声なき声”をうまく掬い取ったとしても、まだまだ不足感がある。誰も彼も、ふさわしくないような気がするのだ。そもそも私達は本当の意味での「多様性」を知っているのだろうか?或いは、私達は本当の意味での「自由」を知っているのだろうか?私達の「いま・現在」を特徴づけているものは多様性というコトバが指示しているものではなく、むしろその逆の方向性の延長であり、本来的な意味に対する認識の欠如によるところが多ではないか?端的に、私達の認識に中立性がなくなっているのではないか?…そんな気がしてならない去年今年(こぞことし)。あらためて問うてみよう。多様性とは何か。その隣接概念である個性とは何か。

ミシェル・フーコーは、「生権力」という概念を使って、多様な生を認めない社会に深く切り込んでいく。以前は、目に見える形で権力者が存在し、権力は、究極的には抵抗者を殺すことを目的として行使されてきた。しかし、国民国家においては、個人の生命を保証し増強させ社会に役立つことを要求する「生かす権力」の行使が行われるようになったとフーコーは主張する。例えば、マイナンバー制度によって国民について政府が保有している情報を一つの数字により一元的に管理することができれば、充実した公共サービスの提供にもつながるが、その便利さと引き換えに、政府が自分たちを数値的に処理することを国民は受け入れるのである。フーコーの議論は人間の生のあり方の多様性を否定する「生権力」への抵抗として理解することができる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%A7%98%E6%80%A7

上記はウィキペディアの「多様性」の一項目である。フーコーと多様性という組は、変な感じ、である。パブリックなイメージのミシェル・フーコーの経歴の華々しさ(ゲイで麻薬大好き、お忍び買春ツアーで男の子買ってて、エイズで若死した)とはうらはらに、伝記などを読む限り本人の人となりに多様性という語感はそぐわない。ねくらのガリ勉という印象。今日を生きる私達にとっての、このフーコーのもっとも過激な門人は誰か?というと伊藤計劃だったと思っている。シネフィルの引きこもり体質のブロガー、夭折した天才的作家。もう10年以上も前のことになるが、伊藤の遺作「ハーモニー」を読んで「この人、フーコーにかぶれてたんだろうな」とあらためて感興を覚えたことがあったのだ。同じくウィキペディアにある作品の概説だが、

2019年、アメリカ合衆国で発生した暴動をきっかけに、全世界で戦争と未知のウイルスが蔓延した「大災禍(ザ・メイルストロム)」によって従来の政府は瓦解し、新たな統治機構「生府」の下で高度な医療経済社会が築かれた。この社会体制では、そこに参加する人々自身が公共のリソースとみなされ、社会のために健康・幸福であることが義務とされた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%8B%E3%83%BC_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)

「ハーモニー」は、フーコーからの直接の影響と模倣がもはや完璧に近い形で見られる作品だ。もっとも、本作を賭け値なしの傑作とするにはかなり問題があり、

トァンはキアンとヌァザの復讐のため「ミァハの望む世界を実現させるけど、それを与えない」と伝えて、ミァハを射殺する。復讐を果たしたトァンは息絶える寸前のミァハと共に基地の外に出て、世界に別れを告げ「人間の意識=わたし」が消滅する。

同上

と、まるで人民寺院みたいなラストなのである。当時、これでは本家と同じ過ちを犯しているのではないか?と、そのような不満が残ったのである。むろんフーコーが見出してた活路は「ディシプリン」とか「ハードコアSM」等々なのであって表面的にはずいぶん隔たりがあるがカルト性という点で、両者は完全一致している。

私はブラックな世界を渡り歩いてきて、いろんな人間を見てきた。いろんな集団とその者たちの末路を見てきた。見たばかりではなく、その行く先々にいた「教祖様」に頷く準備も潜在的にはできていたと思う。もっとも、たまたま個人的な資質の問題で、その「共同体」とは完全な同一化はしなかった。できなかったというべきか。これは意識的な努力ではなく、個人の認知的な特性である。表現が難しいのだけど、私は共感能力が人よりもかなり劣っている。よくもわるくもなにかに共感して、没入することができない。「アニメにハマる」とか「キャラクターに恋をする」とかって感覚をもったことが今まで一度もない。エヴァンゲリオンって面白いの?SFも。タルコフスキーの映画とか、マトリックスとか、ああいうのは開始20分でぐっすり寝てしまう。宗教もアニメやSFと通じるところがある。宗教はものの捉え方を漫画のように平板にする。複雑な話を単純な話にすり替える。私は、一見、素晴らしいものがあったとしても、嫌なものの方に目が向いてしまう性質なので宗教ノーサンクス。無情な男だから、共同体の中の役割として”カチっ”とははまらない。けっして。この性格は「批評家」には向いているのかもしれないが実社会では「出世」しない。

ひと昔前は「よき企業はカルトである」とは経済界の内部でよく囁かれるフレーズだった。私の記憶がたしかならば経営者みずから「自分の会社はカルトである」と、そう公言して憚らない、またそれをよしとする風潮が確かにあったのである。ちょうど時を同じくして、ちくま新書の「完全教祖マニュアル」がよく売れていた。当時私は港区のど真ん中で働いてたが身辺でよく話題になっていた。デカいロゴのトレーナー着たいかがわしい連中が「あれ、読んだ?」とお互いの顔を見あってニヤニヤしてた。時代とその状況が許す限り新しいカルトは生まれ大量の信者をやすやすと獲得するのである。私は「カリスマ」の類いの悉くカルト、いかがわしい運動家の類いだと考えている。時代に屹立している存在に2種類あって、自らの強烈なエゴを公の実現に捧げている者と、エゴの実現のために躊躇なく他者を利用する者とがいる、という違いに過ぎない。だから、見え方の違いに過ぎない。その境目は限りなく曖昧であり、また揺らぎやすいものであるが、どっちにしても・本人がどう弁解しようとも、ゆがんだ特権主義に憑りつかれた危険な存在である。ごくたまに「カルトにも危険なものと大丈夫なものがある」と釈明/主張する言説を見かけるのが、大嘘である。カルトの本質は「組織化」にある。「私は真実を知っている」(真実とか本質とか、このへん言葉遣いは教祖によって変わるが)と陰に陽に吹聴しつつ、また表面では良い人のふりをしつつ、コソコソと狡猾に組織化を図っている。そのような主体。組織(化)の果てに真実はありようがない。組織は自己保存のためなら真実をもみ消す。ゆえに真実を知りたいのなら、組織から外に出ないといけない。すべからく孤立しなければならない。身も蓋もないがこれだけが真実である。一方、「組織に残るかわりに真実から目を背ける」と「組織を抜けて真実を知る」という2つの選択肢があるとして、後記を選ぶ人がどのくらいいるのか?というとおおいに疑問だ。とりわけこの日本社会で。少なくとも古代人に後記を選ぶ者なんぞ、ほとんどいなかったはずである。野生動物の群れの行動を見てもわかることだが、大自然において「群れ」からの離脱は即=「死」につながる。人類が進化し、部落(村)を形成し、狩猟、漁撈、採集を発達させつつあった段階だったとしても、事情は野生動物とさほど変わらなかった。歴史を通時的に確認しても、孤立者が「生存可能」になったのは「近代」以降ということになる。つい最近のことだ。いくら時代や社会情勢が変化したとしても、数万年にわたり培われ刻み込まれてきた遺伝子はすぐには変わりはしない。人間はその生来、過程において臆病なのである。だからこそその無知や臆病さにつけこんでカルトはのさばる。

ならば個人主義者になればいいのか?

一般に心理学では「個人主義」は悪しきもの(邪悪!?)とされる傾向がある。いちばん分かりやすく、かつ手っ取り早い例が”嫌われる勇気”のアドラーだろう。共同体感覚を根本に据える心理学にとって、みずからすすんで集団になかに帰属し、積極的に役立つことを望んでいる者を横目に、その姿勢に対して懐疑的、ともすれば否定的になりがちな個人主義(者)はなんとも鼻につく存在である。個人的に私淑しているエリク・エリクソンも基本的にそういうところがある。況んや実社会においてもや、しばしばこの手の輩には厳しい視線が注がれるのである。ちなみに個人主義の反対はネットで調べた範囲でいうと集団主義であるらしい。私個人の感覚では、そうかな?という感じがしないでもないが、ともあれ「個人主義(=傲慢)」対「集団主義(=謙虚)」の図式は全世界共通といえるかも知らん。謙虚さというものに、人々は賛辞を惜しまない。そしてその反対の傲慢は嫌われる理由の筆頭だ。ただし一言で個人主義といっても、個々人の思想信条によってかなり振れ幅がある。集団に対して感情的な反発心を隠さないタイプと、ただひたすらドライなタイプとに別れる云々。その性質をじゅっぱひとからげにするのは不可能である。また社会の動向・変化によってもその評価にどんな意味を持つか予想できない。私が好んで論う「80年代」の話でいっても、当時のバブルの活況のまっただ中で個人主義はけだしダサいものと見なされていたのは容易に推理できるが、その後の10年、つまり90年代は時代閉塞の状況を反映して、個人へのとじこもりがモードとしてはっきり表れたのである。では今日の尖端的存在たるネット民は?といえば、あきらかに、このような両義性のうちに生きている。

ネット/SNSは個人、おのおのがみずからの思想信条を披露している場に過ぎないのだろうか?、9割方”YES”だけれども。今回は残りの1割の方をあえて考えてみたい。TwitterやYOUTUBEが教えてくれるように、現在、何万何億といるネットの発信者はGAFA的な管理体制(世界帝国)のもとに出現したイメージとして資本制の「生贄」の生々しい表現としてある。これは国内の頂点にいる勝者たち、ホリエモンや立花孝志、ひろゆき...、等々のアルファアカウントですらこの規範を超えることはなく、むしろその紛うことなき極端な体現者といえるだろう。そしていざ社会に立ち返って見てみると、私達は昔とさほど変わらず、それぞれの職能に求められる生産性に必死に応えるだけの勤労の日々を送っているのである。いずれにせよ私達一人一人の、この「日常」を切り抜きする努力に払われる報酬は、せいぜいPV/フォロワーが増えて虚栄心が満たされる程度の、しみったれたものであるが、にも関わらずこの空無な、空虚な極貧の世界に住み着いて、それでもなお十分に満足しているようにも見える。これはじつに不思議な神経と言わねばなるまい。別言すればネット民はある意味、真性の「バカ」(”使えるバカ”ともいう)なのであろう。またこのネット民なるものは、どんなバカでも到達できるまさに「庶民」の完全無欠の理想形のごとき様相を呈している。さらに、これはすべてのプラットフォームにも言えることなのでネット民批判と受け取ってほしくないが、どのプラットフォーム(Twitter、meta、他)も理想化されたロールモデルがあると思う。たとえばTwitterや…youtubeもそうなのかな?、注目を集めている人の思想信条は、なぜかどこか似通ってくる。この「傾向」はアルファアカウントによってある程度規定されてしまっている。noteの場合は、ある意味もっとも顕著であると思う。metaほど思想的偏りは見られないが、違う側面から観ると、どこかしら非常に固定的で、硬直化したところがある。ここは議論の分かれるところであるけれど、あえて断定的に言うと、匿名性のある書き手が、教訓的な物語を綴る。その内容は「日常の一コマ」の包括的な説明として役に立つイメージを上手に読者に伝えている場合が多い(=”ささる”と表現されるニュアンス)。加えて人気が集まりやすい秘訣はロジカルであるよりも、強い気持ちを書くことである。その気持ちの密度が濃い分、社会のなかにあるモヤモヤを解き明かしてくれる効果が期待できる。もし、ここまでの水準に到達しているのであれば、その匿名の物語は立派に社会的機能を果たしている。私みたいなひねくれ者は「共同体幻想」=世俗カルトとでも形容したくなってしまうが、スキやフォローが多く集まることで、ネットにおける団結を保証する行為と態度を、明解に読者へ教えてくれるのである。

周知のように、いまやインターネットの発達の恩恵に与り、ちょっと認められて、調子こいてるバカ=「ヤベェ奴」らの”歪みっぷり”は主にSNS/ブログ文体を通じてものの見事に可視化された感がある。これは、人並みの繊細さを持つ心ある市民たちにとっては不快以外の何物でもなく嘆かわしいことだが反面、よくよく考えると画期的とも思う。異常人格の生態を知る格好のサンプルがあちこちにあるのだから。むろん私(達)自身だってこうした新技術を使って社会へメッセージを送る者の一部であることを忘れてはならないし、いつなんどき自分が「ヤベェ奴」の側にまわるか分からないのだけど。他方で、どうもネットのなかは時空間そのものが捻じれているような奇妙な価値観の氾濫と混沌がある。私達のお父さんお母さん、どころか、おじいちゃんおばあちゃんまでもスマホを手にしてSNSを見ている時代である。裏ではみんなクソリプ飛ばしてるというつもりはないが、普段の家庭生活からはうかがい知れなかったようなかつては下品な罵倒文体にふれていた”元若者”たちと、はからずも世代を超えてオーバーラップする、ということも、ありえない話ではない。2010年あたりを境に(つまりスマホが普及した時期を前後して)テクストそのものの存在価値が激変したらしい。それは、以前のひろゆきの辺野古ツイートと以降の各界の一連の反応とその苛烈さを見れば明らかだが、ネットに投じられた数行のテクストをきっかけにそれまで眠っていた遺恨が蘇ることもある。これではいつ暴動が起きるかもわからん。これは自分とは異なる価値観に会った時に脊髄反射せずにひとまず相手との距離を見定め、自己の内なる声の反応を待つこと、およびテクストへ還元する…、という”読むこと”を習慣としない人々がネットに大量に流入した結果といえるだろうか。ひとついえるのは現在、徒党を組んで特定した対象(敵)を延々と攻撃したり、若い女性を精神病になるまでストーキングして追い込むというような類いの異常な輩が絶えないのだけれども連中がそうなってしまった理由はiPhoneを手に取ってしまったからではないし、ましてやツイ廃になってしまったからでもないということだ。そうではなく現実でもネット(のテクストの世界)でも「ネグレクト」されたままきているということが、ことの本質だろう。それをみずからのあくまで外部の対象への加害によってなんとか埋め合わせようとする。いま私が「多様性」について繰り返し考えているのは斯くの如き時代要請と状況をふまえた動機によるところが大きい。

本当のこというと「ネットの話」をするのは億劫なのだ。書き過ぎて傷食気味だ。ひとたび書きはじめるとネガい文章がとめどもなく溢れてきて止まらなくなってしまうのである。先日、とあるYOUTUBEで動画を見ていたのだけど、ある批評家が「ネットで吹き上がっている連中」云々と軽蔑的な言い方をしながらメディアの今日、およびネット民についてあれこれ語っていた。その言わんとしているのはようするに現在、己の能力を超えて高い立場からものを語ってドヤ顔してる連中がイナゴの大群のように湧いていると。むろんほかならぬ私のような人間のことであろうが彼らの視点からすれば、そのような姿勢はもうオワコンだと。ありふれているということなのである。彼の言っていることは一理ある。ゼロ~10年代頃と比べると現在は「スローガン」とか大きな出来事に際して何か教訓な見通しを述べたてたり、あるいは全体に対して啓蒙的なイベントを計画し参与することを促すというような「大文字な」展開はめっきりなくなった。周知の通りいま言論人たちの間で「ハッシュタグ」などと言い出すと冷酷・冷笑的な反応に終始する。そんなくだらないことにかまけてるひまがあるなら確度の高い企画を連打してストイックにPV集めに専念するのがよろし、というのが共通認識である。「まだ啓蒙で消耗してるの?」(大意)なのである。だから、つまり、まあこれはネットは完全に既存メディアの価値観と倫理観に支配されて(毒されて)しまったということなのだ。昔、ネットで尖端を走っていた人が自覚も反省もなくいつのまにかテレビマンと寸分たがわぬ同じ思考回路になっていて、ひとりの訳知りの現実主義者として嫌らしくネット民を馬鹿にしているという図。たまんねーよな!。こちとら上等じぇねーか?というよりほかないが。こうなればいっそおもいっきし逆張りでドゥルーズ&ガタリみたいに「全編スローガン」なノリで文章を書いてやろうかなぁ?という気がしてくるわけだ。いずれにせよこういう手合いのこざかしい輩をどう虚仮にするのか、ということが私達ネット民の任務であり醍醐味なのではなかろうか?と思う今日この頃である。

私生活の方では、日々やることが決まっていて忙しい。けっこうなことだとは思うのだけど、すくない時間のなかで出来る限り、時代に置いていかれないようにわりといろいろ浅く広く見るようにしている。つい先日、動画のなかでホリエモンが言ってた。すでに「情弱」とか「情強」という言葉の意味は消失している世の中である、と。「情弱」って言葉が人口に膾炙したのは、私の記憶が確かならばゼロ年代半ば。だからつまり、その時点で決定的なパラダイムシフトが起きていたということになる。ここ数か月、私は繰り返し「多様性」について考えて、このアカウントに書いてるのだけどその動機についてもじつは上記のような文脈と深くつながっている。私達はネットという土俵のうえで(すくなくとも建前では)「平等」を享受している、ということになっている。本当は全く平等ではなくそれぞれの個性を認められているわけでは決してない。ホリエモンの話に戻すと彼は「インターネットで情報の民主化が完成して、インサイダー的な情報はもはやなくなった」と。もしかりに本当に「情弱」になりたくなければその発言のいちいちを真に受けずに、むしろ彼の言葉の”裏”を読まなくてはならない。それこそが本来の意味での「リテラシー」である。私見では今ほど不平等な世界はないと思っている。誰もが「平等」に情報にアクセスできる。このことは認める。一方で(「無駄」に対置すべき概念としての)「失敗」できる人間は一人握りである。このような不平等がいわば盲点として存している。とどのつまり私が言いたいこととは民主主義の帰結として、暇と余裕のある金持ちと、エリート、あとは特別に政治が好きな奇人変人蛮人たちだけで政治をやる世の中になっている、ということなのである。今がまさにその世の中である。原則では「誰でも平等」のはずのネットだけど、実際はまったくの不平等だ。見えない所で恣意的にパワーバランスが調整されていてよくわからん嘘くさいのがなぜか人気者ということになる。今日のネットは「不平等」の全き表象である。別に、戦争や社会が動乱に見舞われているわけでもなしに、どこからともなく「ヒーロー」が現れる。よく考えると変な話である。一方で、なんとなく私は、この原理を理解・把握できている気がする。現在のネット/SNSはこの「ヒーローをプロディースする」という欲望と、背中合わせの関係にある(攻殻機動隊の合田一人?的な)ネットを考えるとき、この「動機」は最重要のものである。

光栄に与りたいという人間本性がある。これから自由になっている人間を私はいまだかつて知らない。いっけん異なるようにみえるが自己満足を誇示する態度も同罪である。自分の理想を語る、という仕草。そのほとんどが自己陶酔のための派手な衣装としての演説である。あるいは空無に、虚無に、自己を発展させようとする傾向である。その大半は「無駄」に終わるものだが。これは人間だけではなく企業も全く同じ傾向を示している。この視座からは生命体と企業を区別することは私には不可能に思えてくる。ともに社会的な「たわむれ」をするという現実化の傾向を備えているのだから。だがいずれにせよ自己満足なのである。個人も企業も自己満足に淫している。

あらためて自己満足ではないことって何だろう?

…で?

どうやらネット/SNSは共同幻想体。ゆえに多様性もクソもない。という結論になりそうだが。

言い訳がましいが、私はそれはそれで違う気がしているのだ。留保がつくのは、半分は結論通りだからだ。もう半分は「なんか柄にもなく左翼みたいな文章書いちゃったな」という自分自身に対する反省というか戸惑いというか。もしかりにネットが共同幻想体という俗流「カルト」でしかないのならば、いよいよもって、とるにたらない話ということになる。カルトは所詮、カルトである。現実を変えるほどの力を持つことはない。

でも、どこかで「そんなことなくないか?」という疑念が残る。たとえばネット上でなにかが話題になっていて論争が巻き起こっているとする。大前提としてその内容の是非についてフォロアーが多いとか、スキやいいねの数が多いとかで優劣を決することは端的に言って「ネットの多数決」という意味でしかなく極めてどうでもいいことであり、たいした価値はもちえないだろうと、すくなくとも私は一貫して思っていた。だけど、ここ数年で人々の意識は確実に変化してきており、どうもそういうわけでもない雰囲気になってきている。言い換えれば、ネットで支持される人数によって、その数の寡多によって「優勢」を占めるの?、ほんとにそれでいいの?って話だけど。10年くらい前ならネットにおける多数決に「世論」というお墨付きを与えることに「いやいや、さすがにそれは」としり込みするむきもあったはずだが、それも月日の経過とともにすっかり影をひそめ、今となってはふんわりと「法律」に次ぐ第二位の判断基準という地位を獲得しているような、まじでヤベぇ感じ。わけがわからん、一種の異常事態になりつつあると、私には思える。個人個人がネットで喚いていることなんてのは、せいぜい、そこらへんに落ちてる記事やツイートや資料やウィキペディアなんかをペタペタ貼りつけて引用して、自分の事情に有利な文章を掲げて自説を支持している程度のものなのに。この悪い場所の帰結をもってリアルの方での物事の是非を判断するって、なんなの。要するに「ネット民が安心したいだけでしょ?」としか私には思えないのだが。違うのかな?。私の認識はオカシイですか?とく今年になってからネットの動き方が不穏で、この国の世間は出鱈目になってしまったのかと錯覚するのである。けだし私は新しい社会事情についてこれてない。世界の尖端から大幅遅延しておる。イーロンマスクもおっかなびっくりな日本のネット民。メディア有名人たちのカルト化、苛烈なPV獲得競争のなかでネットに「虚栄」がはびこり、その影響を受けた大衆はただ無自覚に、感情的に物事を判断するのが普通になってしまっている。多くの人々が(ネットを可能性の中心として)集団ヒステリーに陥ってしまっているのではないかと危惧している。やがては衆愚政治の引き金となるのだろうか。たしかに日本のネット民が「暴走」する蓋然性はある。お上も警戒しているに違いない。やはりトランプのトラウマがデカかった。2022年は(一方で)「言論弾圧の年、シャドーバン祭り」だった。トランプのバカちんのせいだ。

もともと虚構の筈だった。もともとは悪戯だった。それらがネットから逆輸入する形で現実にせり出してきた、

ありとあらゆる暴力。差別。いじめ。

最近、エリク・エリクソンの「アイデンディティ」について深く考えている。

人の(おもに子供の)精神の成長の問題については今までおおいに心理学者や精神科医たちによって検討されてきたがそれは結果論として社会領域の視点からなされているのであり、エリクソンが述べているような発達段階という根本の視点にたって、教育や心療内科の現場で研究・実践されているとは言いがたい。もっというと実質「皆無」かもしれない。これは私自身の、学校教育やカウンセリングを経験した者としてのたしかな実感でもある。ゆえにこれが私たちの抱える真の当面の問題といえるのではないか?。以前マズローの自己実現理論(に漂っている”ケチ臭さ”への全面批判)をとりあげたことがあるが、もしエリクソンとマズローの両者を分かつものがあるとするならそれはつまるところ「個への詮索」となる。

私は人に「詮索」されたこと、ないかもしれない。

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