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ネットは、毒か、薬か、

このサイト(note)で2年ほど、書き続けているが、ざっと自分の記事を読み返してみると、自分の精神の「変化」の軌跡を見ているような、妙な気持になる。

最初の方、私は「トラウマ」というテーマを設定して、執筆活動をしていた。もっとも読まれている記事「知識は重要ではない」が、そうなのだけど。
あの記事で言語化したものは、じつは多くの人が密かに抱えていた”胸のつかえ”だったのだろう。

今日、電車の中でふと思ったのだ。自分は「治っている」のだろうか?

そのようなぼんやりした不安が、頭をもたげる。もうずいぶん昔から、すでにして「トラウマ」を持っていたと思う。20代~30代と歳を重ねて、心の傷はどんなふうになっていったのか?

歳をとり、人の気持ちが、かなり分かるようになったし、人の話も聞けるようになった、という自負はある。
ネットにいる「おかしな人」達に見られる、妙ちくりんな、縄張り意識もないし。

ネットには、一見、ハキハキと喋り、健常者のように振る舞っているが、じつは精神の病を抱えている人が少なくないと思う。
彼らの共通点は、結局「一人喋り」をして自己満足をしている、という点に尽きている。精神病の人にとっては、「一人喋り」が理想郷なのだ。

私はどうなのか?…
noteでは、一人で喋っているように見えるかもしれないが、じつは多くの場合、日常の、友達や同僚たちの会話がベースになっている。
殆どの記事は、複数人の声が深く関わっているのだ。逆に、一人で考えても、ろくなこと思いつかない。

たまに、「お前が漫画を語るな!」とか「お前がアートを語るな!」云々と絡んでくる人が一定数いる。「それは、俺だけが好きに語っていいんだ!俺の庭を荒らすな!」と。

(いや、ほんとにいるんですよ…)

ポイントは、そのような人間でも、ブログやTwitter上では、まともな正論をいったり、立派な論説を言っていたり、
自己の態度への反省を述べていたりする、ということだ。

だからこそ、ネットをうまく使いこなすには、健常者と病人との、経験の上での関係を考察する素地を持つ必要があると思う。
そこらへんの慎重な「繊細な眼力」をもってない人が、ネットを使いこなせるのかというと…

ネットを十全に使いこなす上でも、私は現実世界でバシバシしごかれて、鍛えられた方が良いという意見を持つ人間である。
つねにネガティブに語られがちな「暴力」や「虐め」なども、(可能であれば)がっつり経験した方が良いと思う。

そのような「世の中の闇」を、直接的に表現せずに解離的に「僕知らないよー」的に、天真爛漫にふるまう、という戦略もあろうが。
私は臆面もなく、表現していきたいのだ。なんのために身体があり、頭がついているというのだ?

殊にここ数年のネットの傾向、「保護」の過剰な制度化、は深刻だと感じている。言い方は悪いが、特殊な傾向の人を”保護”しすぎ。

ごくシンプルに、よりクリアーに、ありのままの現実を知りたい、世界を知りたいと欲求している人は、少なくないはずだ。

村上春樹がエルサレム賞受賞式典スピーチの際、

高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ

常に卵の側に/村上春樹

...といっている。

大切なのは、圧に立ち向かうこと。賢いとか、面白いとか、そんなものはいざというとき、役に立たない。
ネットで括目すべき人間は、勇気ある人間だと思う。

似た者同士で集まって傷を舐めあってても、仕方がない。ときには勇気を振り絞って、異質な存在へ対峙すべきではないか?そのときにはじめて、ネットは毒から薬になるのではないか。


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