芸術から「精神性」がなくなったら
Twitterで、悲しくなるような、分からんでもないような、応援したいツイートを拝見しました。
ロシアでプロのバレエダンサーとして活躍していらした日本人の方です。日本に帰って、プロの団体に所属されたものの、ロシアにいた頃の条件とのあまりの違いに愕然とし、プロを辞める決意をしたという内容。
同じ芸術に携わるものとして、この方のおっしゃることへの理解や同情、応援の気持ちが渦巻きました。コロナが始まった頃にも、日本とヨーロッパの芸術に対する扱いの違いについて、たくさんの議論が生まれていましたよね。その時と同じ、苦々しい気持ちです。
プロとして芸術に関わる方、観客として芸術に親しんでおられた方たちが、「不要不急だなんてひどい」と声をあげていましたよね。その一方で、「自分の覚悟で、自分の選択で芸術家の道を選んだんだから仕方がないんじゃない?」という声も見ました。
日本だけでなく、欧米でも補償が行き届かなくて、その道を諦めることになった人は多くいらっしゃるでしょう。でもそもそも、この時垣間見えた、欧米と日本の一般論の大きな差って、どこから来るんだろう?
そう考えてたどり着いたのが、今日書きたいなと思ったコレです。それは「精神性」が日常にどれだけ潜り込む余地があるか、ということです。
精神性って、なに。
「精神性」という言葉に注目し始めたのは、つい最近です。夫(日本人ではない)がしきりに「spiritualité」というので、日本語訳は分かるけれど、体感として意味がハッキリ分からないな〜と感じました。
いろいろ調べたりするうちに、大雑把にいうと「なぜ私は生きているのか」を深く内省した状態のことですよね。
だから仏教の「諸行無常(世のすべてのものは移り変わり、また生まれては消滅する運命を繰り返し、永遠に変わらないものはない)」であったり、キリスト教の「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というような教えに見える、どんな心持ちで生きるのか、死ぬのか、という問いと答えが、宗教には確かに強くあります。
これを読んでくださった皆さんに問いたいのです。これまでの人生の中で、
「なぜ私は生きているのか」を強く思ったことってありますか?
なにがキッカケでしたか?
答えは出ましたか?
そのご自分の考えを、誰かとシェアしたことはありますか?
もしあなたが答えを見つけ出せたとして、それは日常生活にどんな風に反映してしますか?
自分の意見が言えない日本人、と自覚する時。
話がゴロッと変わるように見えるかもしれませんが、私の中では「精神性」のことと「自分の意見が言えない日本人」は繋がっています。
留学経験や海外生活の経験のある友人と話していて、ヨーロッパ生活が何年経っても、「欧米人と対等に話そうとするには、自分の性格を自分で押し上げる努力が必要だと感じる」とか、「『キミはどう思う?』と目上の人から聞かれて、なにを答えたらいいか分からない。欧米人は自分の意見がどう思われるか深く考えずに発言してそうだけど、私は『どんな答えを求められているか、なにが正解か?』を考えてしまって、自分の意見が見つけられない」と言います。
自分の属するコミュニティから外されてしまったら生きていけない、という恐怖心は、島国だからなのか、生まれた時から根深く私たちの中に巣食っていて、それが「空気を読む」だったり、圧倒的な自殺者数にも現れています。
「美談」がニュースや新聞を賑わせることも日本独特のような気がします。「これは素晴らしい行動」が刷り込まれて、本当は人それぞれ深く長い理由があってそれができる余裕がないにも関わらず、それが正解だと刷り込まれているから、みんなする。しない人は薄情もの、変わり者。しない理由を話そうものなら、言い訳だ、云々。
いやいや、みんなそれぞれ違う人生生きてるんだから、いろんな理由があるし良いんじゃない!?と思ってるけど、言うと場が乱れるから言わない…。
大人になればなるほど、というか、こう対処できなければ大人と言えない、という感じ、ありませんか。
精神性を自分語にしてみよう
「精神性」という言葉は、宗教的な意味合いも含みだすと知ったらより一層、大ごとな印象を与えるかもしれません。でも私たちは人生のいろいろなタイミングで「生きる意味」に直面させられてきているはずです。
その時、自分の納得のいく答えを見つけられるか。年齢とともに人生経験が変わったら生きる意味も変わる、それを受け入れられるか。そして他の人とシェアする勇気があるか、受け止めてもらえた喜びがあるか、相手も自身の答えを見つけた瞬間に立ち会えた喜びがあるか…。その体験がつまり、自信になっていくのだと思うのです。
芸術の中の精神性
さて、初めの話題に戻って。芸術には精神性が宿っている、それに反対する人はいないでしょう。音楽の中に、舞踏の中に、絵画の中に、文学の中に、作者や社会の「なぜ私は生きるのか」がさまざまな形で刻み込まれているのですものね。
国が違えど、生きる時代が違えど、「なぜ私は生きるのか」という問いは、苦しみを伴うことでしょう。なぜなら、幸せに問題なく生きていたら、生きる意味を知りたいとは思わないでしょうし。個人的にしろ、社会的にしろ、なにか直面させられることがあったから、生きることに注目するのではないでしょうか。
日本やヨーロッパやその他関係なく、全世界的に見て、どれほどの芸術に携わる人、親しんでいる人たちが、その芸術と精神性の関係を丁寧に扱っているのでしょうね。これは私自身への問いかけでもあるかもしれません。
例えば、新学期からピアノを習いたいという小学校1年生の子どもに、いきなり「音楽は生きることと深く関わっていてね…」とか説教しても「分かりまちぇーん!」だと思いますが😂 時間をかけてじっくり、生きている心と作品をリンクしていくこと、教えるときも、自分が弾くときも、聴くときも、忘れてはいけないなと思うのです。
音楽(芸術)は対岸で起こっていることではなくて、私が、あなたが主体的に関わるものだから。音楽をモノとして鑑賞するだけでなく、精神性を持って関わる、と言えば良いかな。。。
もし芸術から精神性をなくしたら、何が残っているでしょう?
すごいテクニック!すごい体力!→ コンクールや試験の点数のように批判
見た目がカッコいい、キレイ!→ ルッキズムによる人気投票的な
なんか癒されるメロディ… → それ単に知ってる曲だから安心ってだけでは…
いや、どれも精神性と繋がることはできるんです。というか、精神性からこれらが出てくるべき!それを発信する側、受け取る側、勉強中の人もプロもアマも関係なく、当たり前のように芸術と精神性をセットで感じられる土壌が、日本には必要なのではないかなと考えた夜です。空気を吸い込めば、チッ素、酸素、二酸化炭素などが一緒に含まれているように。
まぁ全世界的にいろいろあるけどさ。
日本は欧米に比べてこれだからダメだ、という気はさらさらないです。ヨーロッパでも、クラシック音楽はエリートのもの、という考えが悪い方向に現れてきていて、歴史あるオーケストラと音楽院があるジュネーブの「Cité de la musique(音楽都市)」計画も、住民投票でナシになってしまいました。エリートのためだけのクラシック音楽に、公的な資金を投入するのはおかしい、というわけです。
宗教、科学、学問、芸術、、、最近なにかと重要度を貶められているこれら、全部、人類の精神性への自問自答の創り出した結晶ではないですか?
私は音楽で、そしてピアノで、作曲家たちや、それぞれの時代の人たちの「なぜ私は生きるのか」を読み解いて代弁する方法をずっと学んできたし、今も磨いている。その自負を改めて持って、音楽に携わっていこうと思います。
お読みくださってありがとうございました🙇🏻♂️✨
✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎ ✳︎
ジュネーブ在住のピアニスト 岡田真季です
アルゲリッチの幼少期の先生、
スカラムッツァの教えをメルマガで配信中!
日本語では翻訳の見つからない、
貴重かつ超詳細な教えが満載です。
noteで過去記事を貼っているので、
ぜひ覗いて見てくださいね♪
最後までお読みくださり、ありがとうございます! スキ、コメントなど頂けましたら励みになります。サポートは楽譜購入、付き人活動など、ますますの学びに使わせて頂きます。 これからも気に入って頂ける記事をお届けできるよう、がんばります!