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お念仏と読書⑰平均以上効果と愚者のすくい/『自分では気づかないココロの盲点』池谷裕二著

今回は脳科学で言われる私たちの脳の持つ特性、「平均以上効果」を通して、私たちの抱える苦しみは、「自分をよく見せたい」、「愚かに思われたくない」という心から生じることについて書きたいと思います。
そして、アミダ様のすくいの中で、私達は愚か者と知らされていくということを書かせていただきます。

池谷裕二さんの『自分では気づかないココロの盲点』を取り上げるのは、このブログでは二回目ですが、興味深く、色々な視点を頂く本です。

前回は、この本を通して、迷信についてで取り上げました。

平均よりよく見られたい


「平均以上効果」とは、私たちが自分のことを平均より少し良く見積もっているという、脳のはたらきのことだそうです。
 
例えば車の運転手の69%が自分を「平均よりも運転がうまい」と評価するそうです。
また、高校生の70%が「自分の指導力は同級生たちに比べて平均以上だ」、大学教授の94%が「自分の同僚の教授たちよりも優れている」と答えたそうです。いずれの回答も「平均値」の定義にそぐいません。

私たちは自分を正しく評価できないだけでなく、勘違いして「平均より良い」とみなす傾向にあるというのです。それは愛嬌があるとも言える人間らしさの表れと池谷先生はおっしゃいます。

しかしそこに苦しみが生じてくると私は思いました。
なぜなら私たちの苦しみは、人から認められたい、褒められたい、人と比べて偉くありたいという心から生じるからです。
「人からバカにされたくない」「つまらない者と思われたくない」という不安が常につきまといます。

特に現代は「勝ち組」「負け組」という言葉にも表されるように、周りからの評価があまりにも気になる時代と言えます。
また、社会の中で生きるということは「面子」というものが大事になってきます。

自分から自由になる事は不可能


私達誰しもが「平均以上効果」で苦しんでいるのではないでしょうか。
ここから逃れることは自分では決して不可能なのです。
なぜなら、私達は「私はつまらないものです」と自分でも思い、相手に伝えることがありますが、それはよくよく考えれば自己防衛本能から出た言葉でしょう。
人から「本当にそうですね!」と言われたらどうでしょうか?
やっぱり腹が立ったり、「ナニクソ!」と思ったり、「あなたよりはマシだ!」と言い返したくなる私ではないかと思います。

「平均以上効果」は脳科学では「認知バイアス」と言われている脳の癖の一つです。物を見る時の偏りと言えます。
この効果は私が生み出すものです。この私の抱える自作自演の苦しみで、どうであっても私達は自分の偏りの見方の檻から自由になる事ができません。むしろ、どんどん袋小路に嵌って苦しみが深くなってしまうのです。

「ただ一人三面鏡に向かいつつバカにするなと叫んではいる」
思わず私は短歌を詠んでしまいました。(私の姿を詠みました)

親鸞聖人が大切にされた法然聖人のお言葉

浄土真宗の宗祖、親鸞聖人が大切にされた、生涯の師である法然聖人からお聞きになったお言葉に「浄土宗の人は愚者になりて往生す」があります。
お念仏のすくいにあわせていただいた者は、愚か者(愚痴の身)と知らされて、アミダ様のはたらきで一つで、お浄土に生まれることです。
親鸞聖人が八十八歳、最晩年の時にお弟子にあてた手紙の中にあるのです。

親鸞聖人は、29歳の時に法然聖人と出遇われて、お念仏の道に帰入されました。そして、35歳の時に念仏弾圧、承元の法難に遭われ、法然聖人と離れ離れになられます。生涯再びお会いされることはありませんでした。

この法然聖人は、周りからは「智慧第一の法然房」と褒め讃えられましたが、ご自身は「愚痴の法然」と仰っておられたといわれます。
これは人と比べて知識や知恵がないということではありません。

アミダ様の光に照らされて見えてきたご自身は、あるがままに物事を見ることができる智慧の眼を決して持つことができない、「愚痴」つまり自己中心の身だったのです。

お弟子にあてられたお手紙を通して、親鸞聖人は、50年以上の時を経ても法然聖人の「浄土宗の人は愚者になりて往生す」のお言葉を大切にしておられたことが分かるのです。
そして法然聖人を通して出遇われたお念仏に支えられ、自らの姿を生涯、アミダ様に聞いていかれたのが親鸞聖人です。

愚かな私をしっかり照らし包み込む


脳科学の「平均以上効果」は私達が日々人と比べて苦しんでいる姿をあきらかにします。
しかし、アミダ仏は人よりも賢くなったら、偉くなったら、立派になったら、大丈夫になったら、すくうとはおっしゃいません。
「今ここのあなたを、すくわずにはおられません」というアミダ仏のはたらき一つ「南無阿弥陀仏」のおすくいです。

そのはたらきに出遇うと、人と比べて落ち込んだり、優越感に浸ったりするこの日常は、私自身の心の檻が生み出すものと知らされてゆきます。
それは、人と比べて愚者なのではなく、どうしても比べてしまう私が愚者と知らされるのです。
しかし、同時に決して見捨てないアミダ仏の光は、そのような愚かな私をしっかりと照らし包み込んでくださっているのです。

最後までお読みくださって有難うございました。南無阿弥陀仏

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