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お念仏と読書⑬『でんでんむしのかなしみ』殻を背負う私と、私を背負うナモアミダブツ

新美南吉さん作『でんでんむしのかなしみ』という絵本があります。

この絵本を通して、私たちの抱える苦しみの根源について味わいました。
また、そこに「そのまま背負う」とはたらくアミダ仏のおすくいを書かせていただきます。

あらすじ

一匹のでんでんむしがいました。でんでんむしはある日、自分の悲しみの原因が何によってであるか気づくのです。

「ああ、自分の背中には殻がある。その殻の中には、悲しみがいっぱいつまっていて、どうやっても抜け出すことができない」と。(原文とは少し違います。私なりに意訳してみました)
これはもう生きていくことができないと思い、でんでんむしは悲しむのです。

そして、お友達のでんでんむしの所に行くのです。すると、お友達も言うのです。
「あなたばかりではありません。私の背中のなかにも 悲しみは いっぱいです」
そして、別のお友達も言うのです。
「あなたばかりではないのです。私の背中にも悲しみがいっぱいあります」と。
順々に聞いていくとなんと、皆殻に悲しみをいっぱい抱えていたのです。
そこで初めて最初のでんでんむしは気づいたのでした。

「カナシミハ ダレデモモッテイルノダ。ワタシバカリデハナイノダ。ワタシハワタシノカナシミヲ コラエテイカナキャナラナイ」


そして、でんでんむしは生きていくことを決めたという、とっても短いお話です。

苦しみの原因は殻


新美南吉さんは私たち誰しもが背負っている苦しみ悲しみは、自分の「殻」を原因としていると描かれていると感じました。
そしてこの物語を読んで私も殻を抱え生きていると知らされました。
それは自分と相手とを分ける殻であり、誰にも分かってもらえないという孤独の殻です。
その殻とはつきつめれば「私が」という「自分を中心としている心」つまり煩悩のことではないでしょうか。

この殻がなければ、苦しみは生まれてきません。
しかしデンデンムシは、生まれた時からすでに殻を背負っているのです。

そしてこの殻の私をすくいの目当てとして、背負って下さったのがアミダという仏様です。
アミダ仏は私達に対して「あなたが頑張って殻を取り外したら、すくう」とも「殻を薄くしたら、すくう」とは言われません。
「そのままのあなたをすくうとおっしゃいます。
何故かというと、でんでんむしは殻を無くすと死んでしまうからです。

確かに、自分中心という殻を脱いだら、あるがままに物事が見られるでしょう。苦しみは生じません。
相手と私を区別してみなければ、全ての生命を我ごととしてみることができたならば、それはすくいと言えます。
しかし、自分という煩悩の殻なくしては、私達は一瞬たりとも生きてはおられないのです。

かたつむりは殻があるから生きている


私は子どもの頃「でんでんむし、殻を取ったらなめくじになる」と勘違いしていました。なりませんでした。
メダカが鯉にならないように、ハトが鷹にならないように、でんでんむしは生涯でんでんむしなのです。

でんでんむしは、小さな砂粒を食べそれを殻にしていきます。でんでんむしの体と殻は別のものではありません。
生まれた時から殻を抱え、大きくなるにつれて、殻も大きく、硬く、太くなるのです。死ぬまで殻の身なのです。

つまり、でんでんむしは殻があるからでんでんむしなのです。
同じように私も「私を中心としている心」なくしては、私ではありえません。
それが「人生は苦なり」とお釈迦様がおっしゃった、私たちの生命の事実なのでしょう。

しかし、私たちの苦しみ悲しみを生み出すこの「殻」こそが、アミダ仏が願いをおこされた訳だったのです。

殻のあなたを私が背負う


『仏説無量寿経』というお経にはこのように説かれています。

もろもろの庶類のために不請の友となる。群生を荷負してこれを重担とす。
『仏説無量寿経』

このお言葉はアミダ仏がまだ仏になられる前に、法蔵という修行者であり、すべての生命をすくおうと決意され願いをおこしていかれる場面です。

現代語訳をしますと「さまざまな人々のために頼まれなくても、すすんで友となり、これらの人々の苦しみを背負い引き受けていく」という意味です。

殻を取ることも、薄くすることも決してできないこの私を放っておくことができず、まるごと背負うと願われたのが法蔵菩薩です。
そして、その願いを成就して働かれているのが、今私達に称えられる南無阿弥陀仏のお念仏です。

アミダ仏は法蔵という菩薩様であった時に、私に変われとはおっしゃいませんでした。殻を取れとはおっしゃらず、「この私の方が変わろう。あなたの殻の中まで見通し、そのままのあなたを背負うナモアミダブツとなろう」と願われたのです。そしてその願いを成就され、願いのままに今私に称えられる「ナモアミダブツ」のお念仏として働かれているのです。
私が「ナモアミダブツ」とお念仏をお称えする時、もうすでにアミダ仏はしっかりと私を背負っていてくださいます。これが浄土真宗のすくいです。

誰しもが抱える「自分中心」という殻があり、その殻ゆえに、私達は皆悲しみを抱えています。しかし、その殻ゆえに、相手の悲しみをそのまま見たり、分かったりすることができません。
また私の悲しみも全部は見てもらうことはできません。だから、自分で自分をすくうことができず、周りの人もすくうことができません。余計に自他ともに苦しみを深めていくような有様です。

しかしそんな時「ナモアミダブツ」とお念仏をお称えしてみましょう。
アミダ仏だけは、私がお願いせずとも、誰にも知ってもらえない殻の中の悲しみを底の底まで見抜いて知ってくださっているのです。

そして、「ナモアミダブツ」お念仏させていただく中に、重くて重くてやりきれないこの殻を独り背負って生きていると思っていたら、その殻の私をそのままアミダ仏が背負ってくださっていたと知らされるのです。

最後までお読みくださりありがとうございました。南無阿弥陀仏。


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