お念仏と読書#12「風呂のすな」とお仏壇
今回は「風呂のすな」という作文を通して、お仏壇に手をわせる意味について書かせていただきます。
作文「風呂のすな」
おとうさんが湯からあがってきた
わたしがそのあとにはいった
底板をさわったら
すこしすながあった
真っ黒になって
はたらいたからだ
わたしはだまってはいっていた
『おとうさんはとうめい人間』(光雲社)
これは尊敬する先輩から聞かせていただいて感動し、私が法話をする時にも紹介している「風呂のすな」という小学5年生の女の子が書いた作文です。
最近その先輩から伺い、岡村謙英先生の『一子のごとくⅡ』という法話集に掲載されていることを知りました。この本には長年にわたってお寺の日曜学校でお話された、子どもに向けた法話がまとめられています。
小学5年の女の子がお父さんの後、お風呂に入りました。すると底板(昔は風呂の底が金属なので火傷をしないように敷く板のこと)にざらざらしたものを感じます。お父さんの身体から落ちて沈んだ砂でした。
私の娘もちょうど今小学5年生ですが、私の娘だったら「お父さん、汚いから後に入ってね」と言うと思います。言わないかな。
しかし、この女の子は何にもいわず、黙って入っていたというのです。
なぜでしょうか?その前に「真っ黒になってはたらいたからだ」とあります。
農作業でしょうか。道路工事の仕事でしょうか。外仕事で一生懸命家族のために働いて、泥まみれになったお父さんの砂なのです。
きっと女の子はその砂に、お父さんの御苦労を感じたのではないでしょうか。一生懸命働いて自分や家族を支えてくれているのだと。
だから汚いと言わずに黙って入っていたのではないでしょうか。
お浄土の池の砂
浄土真宗のご法事などでお勤めする『仏説阿弥陀経』というお経があります。この阿弥陀経にはお浄土の世界の有り様が説かれています。
池底純以 金沙布地
「池の底にはもつぱら金の沙をもつて地に布(し)けり」
『仏説阿弥陀経』
お浄土は、「風呂のすな」のお父さんが娘のために働かれたように、アミダ様がこの私を救わずにはおられないと願い、ご苦労にご苦労を重ねられてお建てくださった世界です。
ここに「お浄土にある池の底には、一面に金の砂がしきつめられてある」とあるのです。
砂とお金とどっちが大事?
そもそも私は砂を金として輝いては見ることができません。
普段砂をそんなに貴重なものとしては見ていないのでしょう。外に出ればいくらでもあると思っています。
「お金をいっぱいあげよう」というのと「砂をいっぱいあげよう」とでは、どちらが嬉しいですか?当然お金です。
しかし、この女の子にとってもちろんお金は大事ですが、生涯通して心の支えとなるのは、もしかしたら風呂の砂かもしれません。
そしてこの女の子が砂の支えに気づくのは、大人になってからもだと思います。
普段は思い出さないかもしれません。
しかし仕事で失敗した時や、人間関係に疲れた時、また病気になってしんどい時などに、自分を惨めに思ったり、一人ぼっちを感じたりすることがあるでしょう。
そんな時に女の子はふと「あー、あの時お父さんも苦労していたな。泥まみれになって頑張って働いてくれていたな」と思う瞬間があるかもしれません。
その時女の子にとって、風呂の砂は単なる砂ではなくダイヤモンドよりも輝くのでしょう。
女の子が気づこうが気づかまいが、いつも女の子を支えていたのが風呂の砂だったのです。お浄土の金の砂はそのことを教えてくれていたのだと味わいました。
私を支えぬく砂を知る
お仏壇は、私のために建てられたお浄土の世界が表されています。
阿弥陀様がお浄土をお建てくださった訳は、苦しむ私がいたからです。
私の抱える苦しみとは、実は全てのことを自分の都合で役に立つ立たない、得になる損になるとしか見ることができないこの私自身が生み出すものなのです。
風呂の砂の話を聞いても「そうは言ってもお金の方が良い」と思ってしまうのが私です。砂とお金とを交換することはできませんね。
しかし、お浄土はそのような一切の自分の都合から離れた世界です。
そして同時に、自分の都合でしか物事を見ることができず、それによって苦しむ私を決して見捨てずにそのまま包み込んでいる世界です。
お仏壇に手を合わせるということは、自分のお願い事を仏様に頼むことではありません。なぜなら、私の願い事とは、どこまでも私の都合によって描き出すものだからです。
逆に今不安や辛い状況にあっても、お仏壇に手を合わせるとお浄土の働きに出あうのです。
私たちが気づこうが気づかまいが「苦しみのあなたをどんなことがあっても支えぬく」という働きの中にあることを知らせてくださるのがお浄土です。
最後までお読みくださって有難うございました。南無阿弥陀仏。
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