お念仏と読書⑭自分の「枠組」を知る/佐藤雅彦著『プチ哲学』
Eテレ『ピタゴラスイッチ』『考えるカラス』の監修もされている佐藤雅彦さんの『プチ哲学』という本が面白くて、読んで色々と考える機縁をいただきました。
今回はこの本の内容を踏まえて、今回は仏さまのお法りは「自分の枠組み」を知らせてくれることについて味わいます。
また、最後に私が法話の現場でした失敗談を少し書いてみたいと思います。
『プチ哲学』内容紹介
この本に紹介されるプチ哲学は「不変」「想像力」「価値のはかり方」「面白い構造」「前提条件が教えてくれる」「次元を変える」「裏の裏は表」など興味惹かれるものばかりです。
哲学と言っても難しいことはありません。
すべて日常の中での実例を上げておられ、佐藤さんが描かれた、ピタゴラスイッチなどでお馴染みの愛らしい絵と、これ以上ないほど削ぎ落された端的な文章によって、大変楽しく読ませていただきました。
そして、読後に自分で考える余韻を与えてくれているようです。
感じたままに生きることはもちろん大切ですが、それだけでは見えないこともあります。「哲学」というと何やら小難しいものに思えますが、僕がみなさんに『プチ哲学』で伝えたかったことは大きくいえばひとつですー
それは「考えることって、たのしいかも」ということなのです。
「枠組み」を変えると見え方が変わる
この本の中に「ケロちゃん危機一髪『枠組み』ということ」という項目があります。ケロちゃんとは佐藤さんが描かれるカエルのキャラクターです。
海に面して断崖絶壁があり、そこに二人の人がいたとします。(ここでは人ではなくて2匹のカエルですが)。よく2時間物のサスペンスドラマのクライマックスである光景です。
一人の男性が、女性を押している場面、これは男性が女性を崖から突き落とそうとしているように見えます。するとその男性がとてつもなく悪い奴に見えます。
しかしここで少し、カメラを引いてみますと、リンゴの木から女性の頭上に硬いリンゴが落ちてきていて今にも当たりそうだったのです!
こう見ましたら、男性が女性を助けようとしていたのです。一瞬にして男性は優しくて良い人へと見かたが転じられますね。
佐藤さんは言われます。
このように、見る枠組みを変えると、同じ行為でも逆の意味さえ持ってしまいます。
私たちがものを見ている時には、必ずある枠組みからものを見ているということを知っていなくてはいけません。『プチ哲学』
なるほど、必ず枠組みからものを見ているのがこの私だったのか、と気づかされました。
また今回一番お伝えしたいのがこの部分です。
仏様のお法(みの)りを聞かせていただくことは、まさに「私たちは必ずある枠組みからものを見ている」ということを聞くことなのです。
枠組みを超えるアミダ仏の眼差し
仏様のお法(みの)りのお話をを法話と言い、法話を聞くということをお聴聞といいます。
浄土真宗の御法話はアミダ様のお話です。
このアミダという仏様の視野は偏りがなく広大で、すべてを見通しておられます。
私たちが物を見る時に必ず持っているこの枠組みを超えた視野で、私たちのことを見てくださっているのが、アミダ仏の眼差しです。
お聴聞すると、限りないアミダ仏の眼差しの中で「私の物を見る時の枠組み」が知らされるのです。
だから、法話をお聴聞をするといつも驚きがあるのだと思います。
それは自分の物の見方の枠組みが知らされた驚きです。
やさしくも厳しい眼差し
島根県のお寺に法話をするご縁があって、30代前半の頃にお参りしました。
そこでお話をする前に緊張しながら控室で待っていたら、そのお寺の御住職で布教使でもあり、私にいつもアドバイスを下さる先生がご案内に来られました。
その時に先生は、あまりにもガッチガチに緊張している私の姿を見て、声をかけてくださったのです。
私は内心「すごく緊張しているな。いつも通りお取次ぎしたらいいよ」というように、励ましてくださるのかと思いました。
また、法話の時にリラックスするアドバイスをしてくれるのかと思いました。
しかし先生の言葉は私の予想の枠を超えていました。
「あなた、今すごく緊張しているなぁ!だけど今、アミダ様はあなたが間違って仏様のお心をご門徒の皆さんに伝えたりしないか、もっと緊張されとるぞ!!」とおっしゃったのです。
私は正直その時「え!」とのけぞるほど驚き、たまげたことをよく覚えています。
しかしその時先生の厳しい言葉をきいて、後で私の中の甘えた心をアミダ様に見通されたような気がしました。
なぜいつも以上に緊張していたか、それはお世話になっているその先生の前で緊張していたと言うこともあるのですが、実をいうと、法話の準備不足もあったのです。申し訳ないことでした。
枠組みを見抜き、抱くはたらき
仏様の眼差しは途方もない視野で、あらゆる枠組みを離れておられて、私の総てを見通してくださっています。
これほど厳しいこともないと言われます。なぜなら、自分では見たくない、自分で見ることも到底出来ない、怠け心も、汚い心も、全部見抜かれているからです。
人や自分を誤魔化しても、阿弥陀様には総てが見通されているのです。
しかし、アミダさまは同時に「あなたを決して見捨てません」と、ご自身の眼差しの内に見てくださっているのです。
見通して、同時に支え続けてくださる眼差しの中でこそ、私たちは自分の「枠組み」を知らされたり、自らを見つめなおしたりしていくことができるのでしょう。
その後、私は講演台に立って、冷汗をかきながらお取次ぎした記憶があります。
そして御門徒さんと一緒にその先生は最後まで聞いてくださり、その後丁寧に御講評くださいました。
あの時の言葉を今、改めて大変大切なお言葉だと噛みしめています。
最後までお読みくださり、どうもありがとうございました。南無阿弥陀仏。
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