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お念仏と読書⑯プラス思考の向こう『あしたのねこ』/きむらゆういち文・エムナマエ絵

今回は私が一番好きな絵本『あしたのねこ』をとおして、私たちの「プラス思考」や「解釈」はこの世を渡っていくのに最強だが、そこにも限界があるということ、そしてその解決について書いてみたいと思います。

いつものように、ネタバレ注意ですが、宜しければお読みくださいませ。

『あらしのよるに』のきむらゆういちさんが文を書かれ、完全に失明をされているエム・ナマエさんが絵を描かれています。
エムさんの淡いタッチの絵が何とも言えず可愛すぎて、切なさも感じました。主人公の子猫が愛おしくなります。

総てをプラス思考で見る猫

見栄えの良くない、やせっぽちの猫が、お母さんと多くの兄弟に囲まれて幸せに暮らしていました。
しかし、ある日、飼い主に子ども達だけ公園に捨てられます。
しかし、主人公の子猫は「なあに、ちょっとひっこすようなものさ」と言って笑うのです。

この子猫は総ての出来事をプラス思考で見るという猫なのです。なぜそのような猫になったかは後で明らかになります。

その後、兄弟たちは見栄えが良いので、人間たちに貰われていきましたが、やせっぽちの子猫だけは「こんどはぼくかな?」と思いながらも誰からも拾われません。なぜなら見栄えが良くないどころか、鳴き声も「がまがえる」のようだったからです。

しかし、自分の特性である「プラス思考」を発揮して、やせっぽちの子猫は幾多の困難を乗り越えていくのです。

ダンボールに一匹だけ取り残されたら、おうちを独り占めできたと思い、雨が降ってダンボールがびちょびちょになったら、寝る所なんてどこにでもあると笑います。
この子猫の口癖は「ほら またひとつ いいことがみつかった」なのです。

この後、潜り込んだ家は実はトラックの荷台で、いつの間にか知らない街に着いていました。
ここからは読んでいてこちらも辛くなるくらいの苦難です。たった独り知らない街をさまよっていくのです。

ポジティブ思考の限界


誰にも相手にされず、お腹も減ります。そして、冷たい石畳に街灯に照らされた自分の姿を見るのです。「これがぼく?こんなに けがボサボサで、しっぽも みっともなくてまがってる……」
じぶんの惨めさに辛くなります。

しかし、はっとして、急ににっこり笑うのです。
自分が猫だったことを思い出して、お腹がすけばネズミを捕ればいいと思うのです。しかし、なんと捕ろうとしたネズミに逆にやられてしまうのです!

もう踏んだり蹴ったり、全てが上手くいかなくて、子猫はとうとう笑えなくなるのです。涙が溢れてくるのです。

この後は本当に絶体絶命の危機に遭います。その時にやせっぽちの猫の脳裏にはお母さんの顔が浮かびます。
ここでタイトル『あしたのねこ』の意味と、子猫のポジティブ思考の理由が明らかになるのです。

子猫がポジティブ思考になったわけ

「ねえ、おかあさん。おかあさんは、ぼくとわかれるときにこういったよね。『おまえは みためはわるいけど、きもちだけは いつも あしたをみているんだよ。たとえ、どんなめにあったって、そのなかに きっと いいところがあるから、それをみつけて しあわせだっておもうんだよ。そうすれば、かならず もっとしあわせなあしたが やってくるから』って。でも、ぼく……、もうだめだよ」

お母さんは、やせっぽちのこの子猫のために、生きる術を与えたのです。「ポジティブ思考」はこの子が厳しい世の中を生きていくための最大にして最強の武器だったのです。

しかし、その最強の武器である「ポジティブ思考」が叶わない時がきたのです。どんなに考えても、良い所一つ見つけることができないのです。

この後、絵本では一応の解決が描かれて、やせっぽちの子猫は微かな笑顔で終わっていきます。
一応私は、猫が一回りたくましくなったのが良かったと感じましたが、それは本質的な解決ではないようにも思いました。

「解釈」最強説


私達もこの人生で、とても乗り越えることができないような困難に遭ったり、とんでもない失敗をしてしまったりすることがあります。
しかし、その時にでもまだやれることがあると思います。

それは、つまり「ポジティブ思考」であり、つまり、視点を変えること、「解釈」をしていくことだと思います。

メンタリストのDaiGoさんが言われていました。「成功は報酬を得る。失敗は学習を得る」と。
また、喜劇王チャップリンは言いました。「人生は近くで見ると悲劇だが、 遠くから見れば喜劇である」と。
人間最強の武器は「解釈」ではないかと私は思います。見方を変えるとどんな過ちも失敗も、困難でさえも人生の糧になるのかもしれません。

しかし、その「解釈」でさえ、持て余し、どうにもこうにも受け止めることができないことが人生にはあるでしょう。
解釈しようとしてもできずに、ただただ赤子のように泣き叫ぶより他ないようなことが。そんな時どうすればいいか、私にはもう分かりません。
「生老病死」「孤独」というような問題は、人類最強の武器である「解釈」さえも間に合わない時が必ずあるのです。

私の物語を読むアミダ仏


この本にすごく心動かされた私は、子どもたちがまだ幼い時に読み聞かせたことがありました。
読み終わった時、子ども達はどうしたかというと、何とも言えない顔をして、感想は一言も言わず「お母さん!」と連れ合いのもとに走って行ってしまいました。

その様子を後で思い出し、ふと私はアミダ仏のことを想ったのです。
「あしたのねこ」という絵本の、やせっぽちの子猫の感じる悲しみ痛みを、まるで自分のことのように悲しみ、痛みながら読んでいるのが子ども達でした。
やせっぽちの子猫の苦しみ悲しみを、絵本は2次元ですがその物語を、次元を超えて我ごととして見ている私の娘と息子がいたのです。

アミダ仏は無量寿・無量光の仏様であって、私たちの生きる時間と空間を超えておられます。
しかしどこにいようとも、いつでも、私のことをアミダ仏の眼差しのど真ん中に見てくださるのです。

私達は解釈やプラス思考が及ばぬ時があります。
自分でもうこんな人生投げようと思う時もあります。
しかし、アミダ仏の眼差しの中に「オールオッケー」を頂きます。
アミダ仏とは次元を超えて、しっかりと私達一人一人の物語を読みぬいてくださり、決して見捨てず丸ごと胸に抱きしめてくださっているはたらきなのです。

最後までお読みくださって有難うございました。南無阿弥陀仏


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