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お念仏と読書#9「承認欲求」をこえる

前回の記事「認めてもらいたい!!」では、太田肇さんの著書『承認欲求の呪縛』を読んで感じたことを書きました。
書いていて一番思ったのが、自分自身がまさに「承認欲求の呪縛」の中にいるのだなということです。
前回のブログに著者の太田肇さんからイイネ!がついていて、また承認欲求を刺激されてしまう自分がいました(笑)

私達は誰しも褒められたら嬉しいし、貶されたら悲しいものです。
多かれ少なかれ「承認欲求」を抱えて、毎日必死に生きているのが私達人間です。

褒められると「もっと頑張ろう」と思い明日への成長へとつながっていきます。「褒めて伸ばす」という言葉があり、実際に大きな成果があるのです。「承認欲求は最強」と言われます。

しかし期待されたり褒められたりしたら楽になるかというと、決してそうではありません。もっと認められたい、人に良く思われたい、ダメなやつだと思われたくないという思いが強まれば強まるほど、私達は自分で自分を縛り上げて苦しみを深めていくのです。それを「承認欲求の呪縛」と言い、現代の大きな苦しみなのです。

たとえばこの呪縛は、会社で部下が上司に認められたいという思いを、上司が操るパワハラや、組織の中での隠蔽体質を生んだりすると言われるのです。
また過度に人の期待に応えようとして、過労になったりすることもあるのです。

今回は『「承認欲求」の呪縛』の後半を読んで、その解決方法を探っていきたいと思います。

この本には様々な解決法「承認欲求の呪縛」を解くカギが書かれています。
例えばこのようなものがあります。

・リーダーが過度にプレッシャーをかけないように気を付けること
・承認という無形の報酬ではなくて、経済原則に則って金銭によってしがらみを断つという方法
・「失敗体験」も大切と知り、弱い自分を自己開示する
・「勝負」と思えばプレッシャーになるが「楽しむ」と思えば、次元が変わる

そして、私にとって一番心に残ったのが「問題を相対化する」でした。そこには横綱、白鵬さんのエピソードが載っていました。

現在、44回という幕内最高優勝を誇る、大横綱の白鵬さんですが、数年前、歴史的大横綱の大鵬が持っていた32回の優勝記録を前にしたときは、大きなプレッシャーを感じていたそうです。

その時白鵬さんは、尊敬する王貞治ソフトバンクホークス会長に相談しに行きました。
すると王さんは、白鵬さんが驚くようなことを助言されたそうです。

「32回と考えるのではなく、35回、40回と考えたら楽になる」

なんと!目の前のこの一番をと考えている白鵬さんに、あくまでもそれは通過点に過ぎないと、もっともっと大きな目標があるのじゃないかと言われたのです!

王さんご自身が、現役時代には手が届くはずがないと言われるほどの大きな目標に挑まれていたからこその言葉で、それが白鵬さんの視野を広げたのです。

同じ大記録という壁に出あった先達の経験から、その時に感じたことを教えてくれているという王さんのその一言こそ支えとなったのです。
プレッシャーに押しつぶされそうだったのが、少し余裕をもって自分の相撲が取れるようになったのだそうです。

承認欲求の苦しみの解決の一部がここにあるように思いました。
「認められたい」「良い人と思われたい」「ダメなやつだと思われたくない」という私たちのこの苦しみは、外に目が向いていなくて内に向いています。
そして我が身を振り返って思うのですが、そういう時は自意識でパンパンになっていて、視野が狭まっているのです。「これがダメならお終いだ!」と。まさに自縄自縛です。

しかし視点が転じられることによって、世界が広がることがあります。

ここで、娘y氏にまた今回も4コマ漫画を描いてもらいましたので載せます。

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尊敬するシェフに認められるために、何度も頑張ってるのですが、前回見栄を張って失敗してしまった料理好きなペンギン、ペラロン。

そんなペラロンは、今回は、3コマ目で「でも…」と一瞬冷静になるのです。
娘y氏の漫画は常に筆圧が強く、いつもパワフルにコマの中にギッシリ描いているのですが、3コマ目、急に空白が大きくなります。
ペラロンは冷静に考えているのです。別の視点が入って来ているようにも読めます。

「別にだれかにみとめられなくても 自分がイイと思ったらいいよね!!」


少し自分勝手な解釈かもしれませんが、自分自身、承認欲求で苦しんでいる時には、このペラロンの言葉を思い出したいと思いました。少しだけ視野が広がるように思います。

ところで、浄土真宗の仏様のお話、法話を聞かせていただくと、私自身とても「新鮮な気持ち」になります。
それは、自分の抱えている苦しみが何なのか、なぜ苦しいのかを知らされると同時に、その私に向けられたアミダという仏様の途方もなく広大なまなざしに気づかされるからです。

私の「褒められたい」「認められたい」「モテたい」「ダメだと思われたくない」というのは、承認欲求です。それは突き詰めれば貪欲、執着で煩悩なのです。
仏法に聞くとこの苦しみの本質は、人から認められないことではなくて、「私が」認められたいという自分の思いから離れられないことだったのです。それは「私が」から離れられない苦しみでもあります。

対して仏様には「私が」というとらわれがありません。だから自他を超えた途方もないおさとりの眼差しに出あう中に、自ら抱えている固定観念(認められなければならないなど)が相対化されるのです。

「我」のとらわれを離れられた仏様は、決して自分と他人を区別なさらず、途方もないまなざしの内にこの私を見てくださっています。

そもそも阿弥陀という仏様は「あなたが、認められる者になったら救う」とはおっしゃられません。
浄土真宗の救いは常に、今、ここです。
褒められる者になったら救うとも、賢くなったら救うとも言われないのです。

「今、ここのあなたを、そのまま救うぞ!」ただそれだけです。

誰に褒められようと、貶されようと、変わらぬ仏様の眼差しのど真ん中にあるのです。

だから、仏様のお話はいつも新鮮なのでしょう。
自分の中の「承認欲求」で苦しい時、お寺やユーチューブなどで仏様のお話をお聴聞したり、お仏壇に座ってお経を読ませていただくことが、実は大事なのだと思いました。それは仏様の大きなお心に出あうことで、視点が変えられることでもあるのです。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。南無阿弥陀仏。


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