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お念仏と読書⑳漫才は関係性、お笑いはスパーク/『火花』又吉直樹

今回は、又吉直樹さんの小説第一作にして芥川賞受賞作品『火花』を通して、お釈迦様の説かれる「縁起」と、龍樹菩薩の「空」を味わいたいと思います。
何時もの通りネタバレをしているところもあります。

若く売れない芸人の徳永は、天才肌の先輩芸人である神谷と熱海の花火大会で出会います。誰にも媚びることなく、己の感性・才能のみを信じて、お笑いに生きる神谷に惚れ込み、徳永はその日に神谷の弟子にしてもらうという始まりです。
この物語は、主人公の徳永がお笑いコンビ「スパークス」として、先輩神谷は「あほんだら」として、お笑いの世界を漫才師として生きていく青春譚です。

お笑いとは関係性


お笑いとは何か、漫才師とは何かに言及していきます。

「漫才師とはこうあるべきやと語る者は永遠に漫才師にはなられへん。長い時間をかけて漫才師に近づいて行く作業をしているだけであって、本物の漫才師にはなられへん。憧れてるだけやな。本当の漫才師というのは、極端な話、野菜を売ってても漫才師やねん」
神谷さんは一言ずつ自分で確認するように話した。

漫才師とは先になるもののではないと先輩神谷は言います。「今、ここ」にそうあるということでしょうか。

また、漫才は大抵「ボケ」と「ツッコミ」という二者によって「笑い」を生み出していきます。
お客さんとの間の空気などの関係の中で生み出されるものでもあります。

お互いがお互いに関係しあい、影響しあって、生み出す「お笑い」という瞬間について描かれた小説なのではないかと思いました。

仏教で説かれる縁起の教えのことを思いました。
お釈迦様がさとられた「縁起」は、縁起が良い悪いというように自分の都合で使うのではなく、「縁って起こる」という意味です。全てのものはお互いに関係しあい、寄り合って、生じ存在しているということを教えてくれます。

一つではなく、異なってもいない


また縁起の道理をみる時に、龍樹菩薩の「空」をあらわす「不一不異」という言葉があります。「一つではなく、異なってもいない」ということで、物事の関係性についての言葉です。

「不一不異」は非常に不思議な言葉です。通常私達は「一つでない」ものを「異なっている」と見ます。「一つ」のものは「異なっていない」と。
しかし、私たちの思う関係性と、本来の有り様は全く逆なんですよと教えてくれます。
あらゆるものごとは総て相依って、相互に依存しあって、すべてのものごとには固定的実体があるのではないのです。

そのことを端的に表しているのが、本のタイトル「火花」つまり「スパーク」です。
ちなみに、作者の又吉直樹さんが『ピース』を結成する前にしていた漫才コンビの名前を『線香花火』と言うのです。

線香花火の「線香」と「花火」とは「不一不異」の関係です。線香と火花とは一つのものではなく、また異なったものでもないのです。

火花は、線香花火における主役はこの俺だ!と思うでしょう。皆「火花」を見て、自分をきれいだと言ってくれると。
しかし、線香なくては、火花は決して存在することはできするないのです。また、火花は線香の上以外に自分だけでは燃えることはできないのです。
そして、火花は線香を燃やすことによって存在するのではありますが、その必然として、線香を燃やし尽くすことによって自らも消えていくのです。

一方、線香も火花がなければ線香花火とは言うことができません。
線香は線香で、火花を燃え立たしめて、支えているのはこの俺だと思っています。しかし肝心の彼は火花の為に燃やし尽くされていくのです。
では、線香として存在し続けて燃やされないでいるかというと、燃やされない線香はもはや線香花火とは呼べなくなるのです。

線香花火において線香と火花とは、まさにお互いの関係なしには存在することができません。「不一不異」つまり「一つでなく、異なってもいない」のです。龍樹菩薩はそのことを「空」とおっしゃいました。

関係性の中に私があることを知らされる


線香花火だけではなく、「お笑い」や「漫才」、また私達を含め、あらゆるものにおいても「縁起」「空」は当てはまるのです。

漫才はな、一人では出来ひんねん。二人以上じゃないと出来ひんねん。でもな、俺は二人だけでも出来ひんと思ってるねん。もし、世界に漫才師が自分だけやったら、こんなにも頑張ったかなと思う時あんねん。周りに凄い奴がいっぱいいたからそいつ等がやってないこととか、そいつ等の続きとかを俺達は考えてこれたわけやろ?ほんなら、もう共同作業みたいなもんやん。同世代で売れるのは一握りかもしれへん。でも、周りと比較されて独自のものを生み出したり、淘汰されたりするわけやろ。この壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある。だから面白いねん。でもな、淘汰された奴等の存在って、絶対に無駄じゃないけん。やらんかったらよかったって思う奴もいてるかもしれんけど、例えば優勝したコンビ以外はやらん方がよかったんかって言ったら絶対そんなことないやん。一組だけしかおらんかったら、絶対にそんな面白くなってないと思うで。だから、一回でも舞台に立った奴は絶対に必要やってん。

芸人として万策尽きて、徳永がとうとう芸人引退を決意した時の、神谷の徳永への語りかけです。

ほんで、全ての芸人には、そいつ等を芸人でおらしてくれる人がいてんねん。家族かもしれへんし、恋人かもしれへん

それを聞いて徳永は自分もまた、「お笑い」「漫才」の関係性の中にあると思うのです。

僕にとっては相方も、神谷さんも、家族も、後輩もそうだった。真樹さんだってそうだ。かつて自分と関わった全ての人達が僕を漫才師にしてくれたのだと思う。

真樹さんとは、先輩芸人神谷を無償に世話して、自分の家に住ませてくれていた人のことです。

だから、これからの全ての漫才に俺達は関わってんねん。だから、何をやってても芸人に引退はないねん

お釈迦様の「縁起」、そして龍樹菩薩の「空」というお法りから、私はこの『火花』という小説は、自らの能力・努力で「お笑い」「漫才」という一瞬の「火花」スパークをこの手で掴み取りたい、作り出したいという神谷と徳永が、今ここに、すでに「お笑い」というものに包まれていること、そして「漫才」という関係性を知らされていく物語と感じました。

私はこの本を読んで、9歳から20年間、比叡山で御修行を積まれ、29歳の時比叡山を降りられた親鸞聖人のことを思いました。
親鸞聖人は「三観仏乗の理」(生きとし生けるすべてのものがさとりをひらくとする教え)「四教円融の義」(『法華経』にそなわっていると言われる天台宗の教義)を学び尽くされたとあります。「常行三昧」を始め厳しい修行もされたと伺います。
しかし聖人は自らの能力、努力によって、さとりをひらくのは不可能と絶望の中、比叡山を降りられていきます。

そして法然聖人と出遇いによって、自分がおさとりの境地に到るのではなく、全てお見抜きのアミダ仏の方が、包み込み、抱きとるお法りに出遇われました。
アミダ様は私が縁起、空を理解することも、生きることも出来ない、むしろ道理に反している有り様を、全てお見抜きの上で、だからこそご自身が願いをおこされたのです。
南無阿弥陀仏と仕上がってくださっているのです。そして今、大きな光明で包み込んでくださっているのです。

「南無阿弥陀仏」とお念仏申すことは、法然聖人、親鸞聖人と同じ、大きな願いとはたらきの光に、今包まれることです。

二人を包みこむ花火

最後の章で再会した二人は、初めて出会った熱海の花火大会に再び向かいます。
又吉直樹さんのお笑いの視点は「悲しさ」と同時にある「おかしさ」だと思います。全く反対なものが同時にある不思議、そんな又吉さんならではの、ある「花火エピソード」が泣き笑いを与えてくれました。

お笑いの世界をあきらめて出ていった徳永と、借金まみれな上に、ここ数年神谷以外の誰からも面白いと思われていないのに無様な姿を晒してもいまだ居続ける神谷。二人の思いさえすれ違っていきます。
しかし、花火はそんな二人を照らし包み、ご縁は続いていくのです。


花火

(y氏に頼んで描いてもらった花火)
最後までお読みくださり、ありがとうございます。南無阿弥陀仏。

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