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お念仏と読書#2「ギブ アンド ギブ」

浄土真宗では、仏さまや、仏教についてのお話のことを法話と言い、それを聞くことを「聴聞」と言います。この聴聞をとても大切にしています。
なので、ご法事やお通夜でお経のお勤めの後に必ずと言っていいほど法話があるのです。お経に説かれている内容を、一緒に聞かせていただく時間と場所を大事にして、今まで仏さまのおこころは伝わってきました。

今回は、仏さまのおこころについて、シェル・シルヴァンスタイン作、村上春樹訳の絵本『おおきな木』を通して味わっていきたいと思います。宜しければどうぞお聴聞くださいませ。


幼い男の子が成長し、老人になるまで、温かく見守り続ける1本の木。
木は自分の全てを彼に与えてしまいます。それでも木は幸せでした。
無償の愛が心にしみる村上春樹訳の世界的名作絵本。

「そこまでするのか!」「そこまでするほど好きなのか!!」とビックリするほどこの木は少年のことが好きです。
おおきな木は少年のために、願い事をことごとく受け入れていくのです。

最初は少年が幼くて、木の葉を集め王冠にしたり、木登り、かくれんぼしたりして、木と少年は相思相愛の関係でした。
しかし成長するにつれ、少年の願いはどんどん大きくなってきました。

「ものを買ってたのしみたいんだ。おかねがいるんだよ。おかねがなくっちゃ。ぼくにおかねをちょうだい」


自分勝手な願いですが、おおきな木は少年のことが大好きなので放っておけません。お金は持ってないので、自分の枝になるりんごを町で売らすのです。

しかし貰うものをもらったら、しばらくは木に寄り付かなかないんです。自分が困った時にだけ木のところに願いにやってきます。

すでに大人になった少年は「ぼくにはあたたかくくらせる家がいるんだ」「おくさんもほしいし、こどももほしいし、それには家がいるんだ。ぼくに家をちょうだいよ」と甘えきったことを言うのです。
しかし、おおきな木は願いをかなえてやりたいと思い、自分の枝を切らせて、それで家をつくらせるのです。つまり自分の身まで少年に捧げていくのです。

それで終わるかというと、大人になった少年の願いはやむことはありませんでした。まだまだ木に願うのです。それを木はことごとく、受け止め、聞き入れていきます。おおきな木は、少年にしあわせを与えようと必死なのです。

最後、少年は何を願い、結果どうなったのか?ぜひお読みください。本当のしあわせとは何かを考えさせられました。切なさを感じるほど深い余韻を私は感じました。本当にオススメです。

おおきな木は、「無償の愛」「見返りのない一方的な想い」を表しているのでしょう。それは一体何のことなのでしょうか?
また、少年とは誰のことなのでしょうか?

訳者の村上春樹さんはこう言われています。

「あなたはこの木に似ているかもしれません。
あなたはこの少年に似ているかもしれません。
それともひょっとして、両方に似ているかもしれません。
あなたは木であり、また少年であるかもしれません。
あなたがこの物語の中に何を感じるかは、もちろんあなたの自由です。
それをあえて言葉にする必要もありません。
そのために物語というものがあるのです。
物語は人の心を映す自然の鏡のようなものなのです。」
(村上春樹/訳者あとがきより) 

数年前、瀬戸内海の島のお寺に法話の御縁でお参りした時に、お聴聞してくださった男性が、後で控室にお話にきてくださったことがあります。

その島では多くの人がミカンを栽培されていて、その男性もミカン農家の方でした。
「息子は広島市内に住んでいて、年に数回帰ってくる。その時、申し訳程度のお土産を買ってきてくれるんじゃが、向こうに戻る時には、車一杯にミカンを持って戻るんよ!」
はっはっはと笑いながら話してくださいました。

「それでも、帰ってきてくれるんが嬉しいけえ、頑張ってミカンを作って待ってるんじゃ!」

その男性のお言葉と、何とも言えない笑顔を「おおきな木」を読んで一番に思いだしました。

同時に私も普段は気づいてもないですが、親に同じようなことをしているんだろうなとも思いました。

村上春樹さんの言われる鏡を通してみれば、求めるだけ求めて、自分の都合のいい時だけ聞いてもらおうとする少年とは、つまり私の姿です。


仏さまはギブ アンド ギブ


ところで「ギブ アンド テイク」という言葉があります。これだけ与えたら、これだのものを貰うものだという、仕事や人間関係における道理のことです。つまり「やり取り」のことです。
私たちの生活において、すべて物の見方や考え方は、このギブアンドテイクではないでしょうか。

しかし、この「おおきな木」の与え方は違うのです。いわば「ギブ アンド ギブ」と言えます。与えるだけ与える。見返りを一切求めることなく、一方通行のはたらきです。

おおきな木とは何か?

文では「彼女」と書かれていて、つまり女性なのだと村上春樹さんは言われます。多くの人はこの木を母性の象徴としてとることでしょうと。
また、私は仏さまの心のようにも思うのです。

「仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもってもろもろの衆生を摂す」
                      (『仏説観無量寿経』)
「仏さまのお心とは大きな慈悲です。一切とらわれのない、見返りを求めることのない慈しみのこころで、すべての者を抱きとるのです」

仏さまのおさとりは、自他のいのちを分け隔てなく他人事ではなく、一つと見られます。だから、私たちに対して決して見返りを求められません。ただただ与える。ただただ救う。ギブ アンド ギブしかありえないのが、仏さまのお慈悲の心と聞かせていただきます。

おおきな木の少年に対する一方的なはたらきかけは、仏さまから私へのもののように味わいました。もちろん、仏さまは、私たちの自己中心的な願い事をかなえてはくださいません。それは根本の解決にならず、余計に苦しみを深めるだけです。

自他の分別ないおさとりの仏さまから見たら、この少年、つまり私は我ごとなのでしょう。他人だったらここまでできません。
どんなに私が我ままでも、自分勝手でも、私の願いは欲の心から起こす願いであっても、仏さまの願いからそっぽを向いていたとしても、見捨てることはできず、放っておけず、ただただ支えずには、与えぬかずにはおられないのでしょう。

この「おおきな木」原題は「The Giving Tree」。まさに今「与える木」と言うのです。ただただ圧倒される物語でした。

最後までお聴聞下さり、どうも有難うございました。南無阿弥陀仏。 

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