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お念仏法話②「手離す力」

ご法事で面白いエピソードを伺った。

それは亡きお父さん(Mさん)からの「お年玉」の壺のお話。

Mさんは、買い物の時にお札を崩して、余った小銭を家にある壺にチャリンと放り入れるのが楽しみだったそうだ。

なぜなら、それは毎年恒例、お正月にお孫さんにお年玉としてプレゼントすることになっていたから。
お正月になると、娘夫婦と孫たちが家に集まってくる。
その時に孫を集めて、徐に壺を出して言う。
「お前たち、おじいちゃんからお年玉だよ。一掴みずつやるぞ!」と。

孫たちは嬉しい。なぜなら壺の中にはMさんが一年かけて貯めた沢山のお金が入っているから。小銭と言えども500円玉もある。
たくさん掴めば結構な金額になるからだ。

「おじいちゃん、ありがとう!」「いくらだった?」とお互いに伝え合って、ちょっとしたゲーム感覚で盛り上がるのだ。
孫たちが一通り終わると、それで終わりではない。

「お前たちにもお年玉」
今度はMさん、自分の娘夫婦にも壺からお年玉をあげるらしい。
大人でも嬉しいのだ。なぜなら、子どもと比べて掌が大きいからたくさん掴める。

思いっきり掴んで、そしてどうなるかというと、、、

「ぬ、抜けない。」

壺の口が狭くなっていて、どうやっても拳が外に出ないのだ。

「手放せば抜けると思っても、なかなか手が離れませんでした」
Mさんのご法事の時、娘さんが恥ずかしそうに私に教えてくれた。

「欲が苦を生む」という言葉がある。私達の苦しみの全ては「執着」から起こると仏法は教えてくれる。
地位、名誉、財産、家族、仕事、恋愛などなど、私達はいつも「あれが足りない」「これがもっと欲しい」と不足を感じている。
不足なものが手に入ったら、それで満足かというとそうはいかない。私はまた次の不足を見つけ出してきりがない。
また、あればあったでだめなのだ。「いつ失うか分からない」という恐怖に慄く。

Mさんは、娘さんに素晴らしいお年玉のプレゼントをされたと私は思った。
それは2つ。
「欲こそが苦しみの根源だよ。欲張るんではないよ」というメッセージのプレゼント。
そして、もう一つは「そのことが分かっていても、どうしても手が離れない自分であることに気づけよ」というメッセージだ。

生きていくことは苦しみだ。執着こそが私の本性で、この執着がなければ私は全ての出来事を受け止めることができる。
しかし、たとえそのことを知ったとしても、実際はそうは生きることができない。執着あるからこそ私は生きているのだ。

私の人生は私の「もっと良くなりたい」という自分の願望で苦しむ。
「あの時あれさえ手に入れていたら」という自分の思いで後悔する。
そして「こうでなければ私は生きている価値がない!」という自分の思いに縛られ、どこまでも落ち込んでいく。
それは突き詰めれば全て執着の心が生み出したものだ。
しかし、私はそこから一歩も自由になることができない。
お寺で総代をされていて、仏法をお聴聞されていたMさんは、娘さんにそのことに気づいてほしかったのかもしれないと私は思った。

そしてこのエピソードを思い出して、今感じることがある。
それは壺の中の手が離れても、離れなくても、どちらにしても決して怒る事なく、我が子や孫から心離れることなく、見捨てることなく、見守っておられるMさんの親心があるということ。
だから、この壺のエピソードは思いっきり楽しい思い出となっているのだ。

ふと思い出した法語。

苦労をすれば苦労を握る
我慢をすれば我慢がたまる
我が励めば励むが残る
積んだそれらが他人を泣かす
離す力が南無阿弥陀仏

阿弥陀仏は執着の心から離れることができない私をすくうと願い誓われた。
頑なにぎゅっと掴んだ手の力が緩むのは、私の掴む拳をそのまま包む大きく温かな掌のはたらきがあるからだ。

南無阿弥陀仏

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y氏の4コマ。マンガにはしやすい話題だったらしい。

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