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お念仏と読書22光と影

水道橋博士さんのユーチューブで、みうらじゅんさんの浪人時代の話に出あい、「光と影」について考えるご縁をいただきました。


みうらじゅんさんは美大への受験を二度失敗していて、二浪目には東京に出てきて彼女ができ、もう大学には行かず結婚しようと親に言うと「ばかやろー」と怒鳴られました。
そんな時、西荻窪の汚いアパートで、昼過ぎか夕方にカーテンを閉めていたら、そこから光が直線になり入ってきて、四畳半に、3体もいる石膏像のカラカラ帝だったかに、光が当たっていたのです。
寝ながら見ていて、ふと「そうだ、ものって光が当たって暗くなるので見えているので、立体に見えているだけなんだ。」と悟ったらしいのです。
水道橋博士さんも「宗教的ですね」と。
そして不思議なことに、その時デッサンの練習などちゃんとやってないのに、次の受験に合格されました。
その時にみうらじゅんさんは「何かの真理(本質)が分かれば、上手い下手じゃない。」と知られたのです。

昨年山口周防大島のお寺で法話のご縁を頂きました。
絵と彫像をされる前住職、白鳥文明さんに興味深いお話を伺いました。
「絵を描く時に、光は描くことができない」
影を描いて光を表すんだそうです。なぜなら一枚の画用紙がそもそも一番明るい状態なのだそうです。その光の上に絵の具で影を描いて光のはたらきを表していく。それが絵画で、何を描いてもそれは影で、光に照らされ支えられた影なのだそうです。これには驚きました。

白鳥文明さんの著書「石ころ」にはこうあります。


「ところで、真面目な話。絵を描く中で一番難しいのは光だ。何故なら、光そのものを描くことはできないからだ。光は影を描くことによってもに表現される。影は光を遮ることによって出来るから、影を描くことによって、そのものが光の中にあることも現わされる。
つまり遮るものとその影によって光は表現されることになる。
私の上に阿弥陀如来の大悲が釈尊の教説となって注がれると、等身の影が目の前に現れる。大悲は眩しすぎて見ることは出来ないが、心の影はくっきりと見えて、しかも決して離れることはない。このサクランボたちが光の中にあるように、影を見る者のみが光を受けていることを知らされることになる。」

みうらじゅんさんがおっしゃる「真理」の内容を述べられているように私は感じました。

浄土真宗の私達がいつもお勤めしている『仏説阿弥陀経』は鳩摩羅什訳です。その中にお浄土の世界の様子をあらわされていて『青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光』とあります。
また玄奘三蔵が訳された同じ阿弥陀経の違訳『称讃浄土仏摂受経』があり、これは親鸞聖人も読まれたと言われています。
そこには先ほどの箇所を玄奘さんは「青形には青顕、青光、青影あり」と訳されているのです。
つまり浄土には光だけでなく、影があると説かれているのです。
私は不思議に思い、先般地元の先輩に電話をしますと、「私たちの心の影まで知ってくださり、包み込むことを表していると書かれている本があったよ」というようなことを教えてくださいました。

また、サブカル大蔵経の永江さんにサンスクリット原典からの梵文和訳の対象部分を教えていただきました。
「これらの蓮池の中には、もろもろの蓮華が生じていて、青い(蓮華)は青い色で、青く輝き、青く見え、」とありました。
ここには「影」とはないのですが、影とは「形」や「姿」のことなのかもと思いました。

阿弥陀仏は光の仏様とお経には示されています。

みうらじゅんさんや、白鳥さんがおっしゃるように、光というものがあって影というものがあるという別々のものではありません。
仏様という方がいらっしゃって、私というものが別にいるのではなく、今ここに、苦しみ悩む私のところにこそ、照らし支えはたらきぬくのが南無阿弥陀仏という光の仏様です。


ユーチューブで見たみうらじゅんさんの気づかれたことから、光と影は別々のものではないと知らせていただきました。


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