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サブカル大蔵経960藤田宏達訳『新訂 梵文和訳 無量寿経・阿弥陀経』(法蔵館)

「讃仏偈」って何が書いてあるのだろうと、ふと思い、藤田先生のサンスクリット原典からの和訳を抜き書きしました。

普段読んでる漢訳経典と照らし合わせながら読んでみました。

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【讃仏偈】藤田宏達訳『梵文和訳無量寿経・阿弥陀経』(法蔵館)p.67-70より

(そのとき、アーナンダよ、かのダルマーカラ比丘は座から立ち上がって、一方の肩に上衣をかけ、右の膝がしらを地につけ、かの世尊ローケーシュヴァラ・ラージャ如来がおられるほうに向かって合掌をし、世尊を礼拝して、そのとき、面前において、これらの偈頌を持って讃えた。)

法蔵菩薩が、世自在王如来を讃える。その場面の場所はどこでしたっけ?

『⑴アミタ・プラバ(無量の光明をもつ者)よ、無限・無比の覚智をもつ方よ、
ここでは、他のいかなる光明も輝かない。
太陽や宝珠の光輝や月の光も、
灼熱するものらも、それらによって一切の世間に輝くことはない。

「光願巍々」の「顔」が原典にはない。

⑵衆生たちの最上者[であるおんみ]においては、色かたちも無限であり、
同じく、仏の声も無限の響きをもっている。
また、戒や、三昧・智慧・精進についても、
おんみに等しい方は、この世間では他にだれもいない。

「戒聞精進」の「聞」がない。

⑶深遠で、広大で、微妙なる法が[おんみにより]到達された。
最勝の仏[であるおんみ]は、あたかも海のごとくに思われる。
しかも、そのことによって、師[仏]には高ぶりがなく、
頑迷と憎悪とを捨てて、彼岸に渡られた。

「法海」がきちんと描かれている。世自在王如来は高ぶらない。

⑷あたかも最勝の仏[おんみ]が、無限の威光をもち、
人中の王のなかの王として、一切の方角を照らすように、
そのように、わたくしは法の主である仏となって、
生類を老と死から解放せしめよう。

「震動」がない。

⑸布施・自制・戒・忍辱(忍耐)・精進・禅・三昧、これらとともに、同じく、最高・最良なるもろもろの禁誓を、わたくしは受持する。
一切衆生の救済者である仏に[わたくしは]なろう。

 漢訳では六波羅蜜のもう一つである「智慧」が足されている。藤田先生の訳注ではチベット訳でも「最高の智慧」とあるから、底本にはない「智慧」が元々の原典にあったことも類推されている。

⑹ガンジス河の砂のごとく無限なる、
十万・千万という多数の仏たち、
それらすべての主たちをば、わたくしは、
無比にして、吉祥・最勝なる覚りを求めて、供養するであろう。

 あらためて「供養」とは?法蔵菩薩が一切の仏を供養するのか。

⑺ガンジス河の砂塵に等しいもろもろの世界と、
それよりもさらに多い無限のもろもろの国土に向けて、
かしこの、いたるところに光明を放とう、と[考えて]、
このような精進に[わたくしは]つとめるであろう。

 数学的印度世界を感じました。

⑻わたくしの国土は、広大であり、最高・最良である。
この世の有為なるものの中でも、最勝であり、[覚りの]座であり、
比類がない涅槃界の安楽である。
そして[涅槃に達しない]衆生がいなくなるまで、こ(の国土)
を(わたくしは)清浄にしよう。

 「この国土を清浄にしよう」という言い方は西欧神話のような印象なのですが、訳注でもこの箇所は困難なところとされていて、チベット訳、漢訳、平等覚経らを引用しながら翻訳過程を記載されていました。また、漢訳の「奇妙」はどこに対応してどういう「奇妙」なのか。「涅槃界」という言葉も新鮮。ここも藤田先生の訳注で詳しく述べられています。

⑼十方より来集した衆生たちは、
かしこに行き、かれらはすみやかに安楽となる。
仏はわたくしの規準であり、このことについての証人である。
真実なる精進の力をもつ意欲を[わたくしは]生み出す。

⑽十方の、世間を知る方々、とらわれのない智をもつ方々、
それら[仏たち]も、常にわたくしの心を知りたまえ。
わたくしは、阿鼻[地獄]に行って常に住しようとも、
誓願の力を決してひるがえさないであろう。」 

阿鼻地獄まで出てくるんだ…。漢訳経典では「苦毒」で、地獄という言葉は使われません。「誓願の力」は、訳注で、誓願の原語、「心を前に置く」という語源が説かれていました。

このあと、重誓偈も抜き書きさせていただきましたが、読むのはまた明日にしよう。

【重誓偈】同書p.89-92
『⑴もしも、まさに、わたくしが、覚りを得たときに、
これらの最勝の諸誓願を、このように殊勝なものとしないならば、
人中の王(世尊)をよ、わたくしは、衆生たちの最上者、
十力を持つ者、無比の供養されるべき者とはなるまい。
⑶もしも、わたくしの国土において、このように、
多くの貧しい者たちにとって、天の輝ける豊かなものがなく、
苦しみにおちいった人を安楽になし得ないならば、
わたくしは、人々の中の宝の[ごとき]王とはなるまい。
⑶もしも、わたくしが覚りの座に到達したとき、
[わたくしの]名が、すみやかに十方の、
あまたの、多くの、無限の諸仏国土に達しないならば、
わたくしは、[十]力を得た世間の主とはなるまい。
⑷もしも、まさに、わたくしが無比・吉祥なる覚りに近づきながらも、
憶念と思慮と了解とを捨てて、
愛欲の享受を喜ぶようであるならば、
わたくしは、世間において[十]力を得た師とはなるまい。
⑸主(世尊) よ、(わたくしの)無比・無限の広大なる光明は、
[四]方[四]維の一切の仏国土を満たし、
[わたくしは]貪欲と一切の憎悪・愚癡とを鎮め、
地獄界における火を鎮めるであろう。
⑹よく輝ける大きな瞳を生じて、一切の人々の暗闇を破り、不運の生まれの者たちを残りなく取り除いて、
無限の威光ある天界への道に[わたくしは]導くであろう。
⑺月と太陽の光は天空に輝かず、
宝珠のかたまりや、火や、神々の光明も[輝かない]。
清浄な、過去の行を実践して、
人中の王の光は一切[の光]に打ち勝つ。
⑻人中の最勝者で、苦しむ者たちの[かくされた]財宝となる、
そのような者は、[四]方[四]維にいない。
十方の善すべてを満たして、
会衆の中に入って、仏の獅子吼を(わたくしは)なすであろう。
⑼過去の勝者であり、自存者[である仏]たちを尊崇して、
無量千万の禁誓と苦行とを実践し、
誓願の力を満たした、衆生たちの最上者として、
最高・最勝の智の集合を[わたくしは]求めるであろう。
⑽世尊よ、あたかも、とらわれのない智をもって見る人中の王が、
有為を三種に知っておられるように、
わたくしもまた、無比の供養されるべき者、
最高の智者、人々の導師となるであろう。
(11)人中の王よ、もしも、わたくしが覚りを得て、
このような誓願が達成するならば、
この[大]千世界は振動せよ、
神々の群れは天空から花を雨ふらせよ』[と]。

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