呪い
やらない後悔よりやった後悔という言葉がある。私は、これほど愚かな言葉を他には知らない。
努力というのは呪いである。
人間には確実に違いがある。それを優劣という言葉で角を立たせるのか、個性という言葉で慰めるのかは個人の考え次第であるが、どの世界にもテストがあり、受かる人間と落とされる人間がいる以上、これはまごう事なき事実である。
もちろん、努力によって個人の差を埋めて余りある絶対評価の世界も存在するが、実際の所相対評価の椅子取り合戦では、努力は呪いとなる。
長い時間と労力をかけて、絶対に欲しいと願ったものが手に入らなかった時、果たして本当にやれることはやったからと清々しい気持ちでいられるだろうか?
こんなに時間を使ったのに、こんなに努力をしたのに・・・そんな言い訳を口に出せるのは、実際まだ努力の余地の残した人間である。
自分の全てを出し切り、それでも敗北、失敗を突き付けられた人間は、己の無力さを前にただただ呆然とするのみで、言い訳をする余力さえ残されてはいない。
一歩踏み出せば変わると背中を押すラブソングも、競争に挑むことを美化する予備校のCMも、全ては勝者から見たストーリーである。世の中には確実に、絶対数実らない努力をした人間が存在する。そして、一度も成功をせず、何も手に入れられないまま無為に月日を重ねると、努力という名の呪いはより呪力を高める。
努力を経験せずに失敗をしても、自分に言い訳をするのは簡単だ。しかし、努力を経験して失敗をすれば、言い訳は出来ない。まして、努力して失敗をしているのだから、次に成功しようと思った時、努力をしないという選択肢は生まれない。努力しても出来ないのに、努力しないで出来る訳がないのだから。
そうして失敗を重ねていくうちに、どうせ失敗するからと自らを諦めたいのに、成功という甘い蜜をちらつかせる努力に呪われ、努力することを辞められない。こうして深く呪いにはまっていく。
やらない後悔よりやった後悔などとほざく人間は、一度は成功を知っていて、後悔をせずに済んだ経験があるから、こんな馬鹿げたことが言えるのだ。失敗するとわかっているのに、もしかしたらと淡い期待を抱いてしまう人間の気持ちなど、到底理解してない。そして、挙句の果てには努力が足りないと私たちを呪おうとするのだ。
失敗をして得るあの惨めさより、この世に辛いことなどあるのだろうか。部活で敗れ、受験に敗れ、女性にも振り向かれないこの私に、これ以上何を努力しろというのだろうか。
しかし御託を並べても、努力の呪いからは逃れられない。半端に努力をする体力だけ身につけてしまった今、あらゆる事象に淡い期待を抱き、きっとまだ無駄な努力をすることだろう。
誰からも愛されず、誰からも認められず、それでも他者からの承認を求めてさまよい続ける人生程、惨めで無意味なものを、私は知らない。