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桜は咲いたけど・・・

(これは、ボクが以前に書いたことを書き直したものなので
重複したものになります。新たな意見ではありません。)


ボクがいままでに出会った人の多くは
少なからず出身校に対してコンプレックスを持っていました。
ほとんどの人がそうであり、高学歴と言われる人でも同じでした。

「もうひとつでも上の学校へ」とでも考えるのか
「もっと上にある学部へいけてたら」と思うのか
ストイックとでもいうべき考え方をしてる人もいました。


ボクは高校が最終学歴であり、それも中の中くらいでしたが
独自の考え方をしているから、何もコンプレックスを感じませんでした。

その考え方は・・・


自分がもし違う年の人と、試験を受けたとしたら
いまの学校ではなく、もっと上か下の学校に行ってたんだろう。
と言うことは、生まれた年が違えば、評価される基準も違うということ。
「当たり年」に生まれるか、そうでないかによっても基準は変わる。
そんな風に考えれば、生まれた時点で努力しても意味のないことに
「人に言われるがまま、努力してるだけではないか」ということです。


結果、自分の実力が、教師の評価により
「ここなら行ける」「ここはキツイ」「頑張り次第だ」などの
意見を付け加えられ、操られているようにも思えます。


それに学生時代には自分の実力が出せない人もいます。
学生のときにしか試験を受けない人も多くいます。
人の成長のしかたは千差万別であるはずなのに・・・


社会に出るための配属地を決める入試(しかも一時的に)で
コンプレックスを持ってしまうなど馬鹿げてるというのがボクの意見。


それに気づかず、一生自分を卑下して生きる人がいたとしたら
それも教育制度にも、問題があるのでしょう。


ボクの小学生時代の同級生が「東大」を受けて落ちたそうです。
その後、「慶応」に受かったそうですが、その後に
「アメリカンポスト」に入社して「戦場記者」として活躍したらしいです。
退職後も、同じような職に就いたと聞きました。

彼は小学生時代から優しかったです。
ふたりでマラソンをやったときも、一周遅れのボクを励ましてくれました。
人の為になる仕事を選んだのも、優しさからでしょうか?


彼と、一瞬でも友達になれたことは、幸せだと思います。
そんな彼のような人も、コンプレックスはあったのでしょうか?
ボクが生まれ変われるなら、彼のようになりたいな。


「桜は咲いたけど」という人も多いのでしょうが・・・

ブルーライト浴びすぎてないですか? ファミコン1日1時間、パソコン1日好きなだけといいます。 そんなに書けないけど・・・また読んでください。