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ダム、ショートカクテル、ケッコンの女神

「女性より先に服を着てはいけないって、これまで誰からも教わらなかったの?」
黒いボクサーパンツに右足を通す僕を見て、白いシーツに包まれたユリさんはベッドの上から言った。
「初めて聞きました。」と僕は答えた。
「それじゃあいま覚えて。男性は女性より先に服を着てはいけないの。私の言っていること、分かる?」とユリさんは僕に尋ねた。
「分かると思います。でも例えば今日みたいな日は、僕がこのあと実験をしに大学に行かなきゃならない日は仕方がないと思いませんか?」
「そんな日はね、女性を誘うべきではないの。」
でも、と言いかけた僕を制するようにユリさんは続けた。
「私の下着はどこ?」
「椅子の上です。」と僕は答えて、少し前に椅子の上に置いたユリさんの白い下着を彼女に手渡した。
「下駄箱の中から出てこなくてよかった。」とユリさんは言った。
「女性の下着を下駄箱や冷蔵庫の中に置かないくらいの常識はあります。」と僕は言い返した。
「君なら冷蔵庫の中に女性の下着を置きかねないと、私は思うけどな。」とユリさんは言って笑った。
僕はわざとらしく口をへの字に曲げて彼女を一瞥したあと、両足を通したボクサーパンツを腰まで上げた。そして、今度は床に散らばった靴下に手を伸ばした。
「ジッケンって何をするの?」とユリさんは僕に尋ねた。
「今日はコンクリートの強度をはかる実験をします。」と、右足に靴下を履きながら僕は答えた。
「大学では土木工学を専攻しているんです。」
「土木工学。」と彼女は確かめるように言った。
「土木工学を専攻する学生が、夜にはバーカウンターの内側に立っているのってなんだかおかしいね。私にはその2つの要素はとても縁遠いように思える。何の繋がりもないように思える。」
僕は左足のつま先を靴下にかけた手を止め、少し考えてから答えた。
「例えば、土木工学が扱うダムと、バーテンダーが扱うカクテルは似ていると言えるかもしれません。少なくともある一面においては。」
「ダム?水を貯めるあのダムのこと?」と彼女は尋ね返した。
「そう、そのダムです。水を溜めるダム。」と僕は言った。
「ダムもカクテルも、生まれた瞬間から緩やかにその効用を損ない始めます。その点ではこの2つは似ている。」
ユリさんはブラジャーのホックを留めるために背中に回していた手を止め、僕の方をじっと見た。僕が続きを話すのを待っているようだった。
「ダムの底にはゆっくりと、しかし確実に土砂が堆積していきます。そして、ダムが貯めることのできる水の量は徐々に減っていきます。ダムは完成した直後に最も高い効用を発揮するんです。それはカクテルも同じです。」
僕は続けた。
「カクテルはできた直後が一番美味しい。特にショートカクテルはそうです。そして時間が経つにつれて、徐々にその調和は損なわれていく。」
「であるからして、注文したカクテルは早く飲み切りなさいって、セールストークにも繋げられそうだね。」とユリさんは茶化すように言った。
「早速今夜から使っていこうと思います。」と言って僕は笑った。
「でも、ダムとカクテルには決定的な違いがあります。カクテルを作っている最中に人が死ぬことはない。けれど、ダムを作っている最中に人は死ぬことがある。」そう僕は続けた。
「ダムを作っている最中に人は死ぬことがある。」と彼女は繰り返した。
「少し前まで、ダムの工事に着手するときは、その予算案の中に弔慰金に該当するものが必ず組みこまれていたんです。ダムの工事において、現場の人間の死はあらかじめ予定されている事柄でした。ダム工事という山を削り取る仕事は、それだけ危険が多かったんです。」
ユリさんは黙って聞いていた。
「死の危険に絶えず晒されている彼らは、さまざまな戒律を互いの間に設けていました。例えば、坑道内で口笛を吹いたり、歌を歌うことは禁じられていました。また、女の体を連想させる言葉も禁句でした。山の女神を嫉妬させると考えられたためです。」
「航海でも似たような戒律を聞いたことがあるな。海の女神が嫉妬するから女性の航海士は船に乗せてはいけないって。海の女神がいれば、山の女神もいるんだね。」と言って、ユリさんは再び背後に手を回した。
「そうですね。僕たちは身の回りに起きる不幸を女神のせいにしたがるのかもしれません。」
「私とお喋りしてジッケンに遅刻してしまうのは、ケッコンの女神を怒らせたせいかな?」
僕は壁に掛けられたアナログ時計を見た。時刻は13時半を回ったところだった。実験は14時からだ。際どい時間だった。
「ユリさん、申し訳ないですがチェックアウトをお願いします。急いで大学に向かわなきゃ。実験の単位は一コマでも落としたら留年が決まってしまうんです。」
僕はそう言って、床に散らばったグレーのパーカーと青いデニムパンツを素早く身につけると、ベッドの上で足を組んで座るユリさんに近づき、彼女の額にキスをした。
「私は君が留年するのも悪くないと思うな。そうすればもう1年の間、君の作ったお酒を飲めるし、こうして昼から会うことができる。」彼女は悪戯っぽくそう言った。
「またお店に来てください。こっそり一杯ご馳走します。」僕はユリさんにそう言い残すとリュックを背負い、ホテルの一室を後にした。
背後から聞こえたユリさんの「またね。」という声に、僕は背後を振り返らず右手だけ振って答えた。
僕は足早にエレベーターホールに向かい、下階行きのボタンを押した。エレベーターの到着を待つ僕の頭の中に、「私は君が留年するのも悪くないと思うな」というユリさんの言葉がいつまでも反響していた。

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