かっぱらった給食を自作の神様にお供えしていた子供時代の話。

子育てをしているとふと息子の言動から、自分の子供時代の記憶がぶわぁーーーと泉のように湧き出てくる瞬間が何度かある。

今日はそんな話。

私はthe田舎町で育った。

幼稚園と保育園が1つずつ。園の雰囲気やカリキュラムを吟味して我が子のスタイルに合う幼稚園を…なんて悩みようがない、選びようがない環境。

幼稚園から中学校までほぼ同じメンツ、同じキャラ。安心するけど変わらないメンツ、変わらない力関係。

なんとかカーストなんて言葉はその頃知りもしなかったけど、そんな暗黙のカーストは感じていた。

そんな閉ざされた環境なもんだから、3年に1回くらい来る転校生への興味関心がハンパじゃない。転校生の周りには人だかりが出来て、都会あるあるを聞いては『テレビの中の世界はあながち間違いではないんだなぁ』なんて、

あの頃は自分の暮らしている田舎が世界の中心で、その世界しか知らなかった。知る由もなかった。

走っている車を見るだけで、あ、山田さんチの車だね、買い物かな?と認識出来てしまう。田舎あるあるはいくらでもあるある。

通っていた小学校は小さな丘の上にあった。目を引くほどチビだった私は、自分の体の半分くらいあるランドセルを背負ってその坂を登った。『あとどれくらいで着くのか』学校までの距離を目視すると辛くなるので、ずっと下を向いて黙々と歩いていた。


小学校には裏山があった。

読んで字の如く、学校の裏にある山だから裏山。休み時間になると裏山に上り休み時間終わっても中々戻らず遊び倒した。

毎度毎度『チャイムの音が聞こえませんでしたーーー』と、子どもすら騙せないような、くだらない言い訳をして、怒られて、懲りずに次の日もチャイムが鳴っても遊び続けた。

夏はカエルやカナチョロをひたすらに追いかけては捕獲する日々。クラスで1番デカいカナチョロを獲ったやつがその日のヒーロー。
みんな筆箱に一匹はmy箸ならぬ【myカナチョロ】を仕込んでいた。

冬はあわや大事故にもなり得るレベルのお手製ジャンプ台を何個も作って、スリル満点のソリ滑り。遊びのバリエーションは少ない。最大限にアレンジを加えてもソリを何個にも連結して大人数で滑る、くらいの遊びだ。ただひたすら、ソリを片手に山を登り、キャーキャー言いながら滑り、また登りキャーキャー滑る。

文字にすると悲しくなるくらい単純な作業の繰り返しが、休み時間はもちろん放課後、更には学校の休みの日にまで、本当に飽きることなく続けられた。

3・4年生の時にクラスが崩壊した。

いじめとか陰湿なものではなく、でも授業ができない状態だった。大学を卒業して1年目の若くて色が白くて可愛らしくて優しくて。

今思えば最高に初々しい、ドラマ化出来るレベルの完成度の高い新米先生だった。

友達たちが何かしら自分とは違う、複雑な事情を抱えているのは子どもながらに感じていた。

そうゆう空気を読む力は子どもは本当に長けている。小学校3年生からタバコを日常的に吸うなんて、あの時は何にも思ってなかったけれど。今1人の親になってわかる。

あれは完全に異常事態だった

朝の集会。2列に整列したまま廊下を歩いて、体育館に行く、そんな簡単な事すら出来ない。うるさい!!やり直し!!何人もの先生方が新米先生のフォローに入り、私たちをとにかく怒った。

歩いている途中、誰かが騒ぎ出すと『やり直し!!』と力づくて教室に戻す。体育館への行進を何度も何度もやるもんだから、やっと着いた頃に集会が終わりました、チャンチャン!!みたいなコントのような展開が日常だった。

大人達が怒れば怒るほど、過剰に反応すればするほど。子どもは楽しんでスリルに痺れて、またおちょくってしまう心理を、私は自分自身で感じて、なんの悪気もなくただただ楽しんでいた。

問題児クラスと呼ばれ、理科の実験室も使えず。もちろんそうゆう判断に至った根拠はしっかりあるため、大人達の対応を非難しているわけではないが。

なんであんなに毎日ガラスやビーカーが割れていたのか不思議でしょうがない。誰かなんか魔力使えたヤツ、いたのかな?

オイルが下に溜まっていて糸の所に火をつけてキャップで火を消すあの道具。小学生理科の代名詞ともいえるアイツを私達は触れなかった。

火をつけず、先生がエアーでたった一人で『はい、今火がつきました。今消えました』とやってみせている姿も今思えばコントみたいだったな。実際に触ったことがないからか、アイツの名前が出てこない。


そんな日々の中で、思春期真っ盛りの私たちは、裏山に籠り、神様を祀った。

裏山を奥に奥に進むと、木のツルとツルが絡みやって、ティピーテントみたいになっていた場所があった。

誰が言い始めたのかわからないが、【ここをキャンプ地とする!】的なニュアンスで、ここに神様がいる!!と言って、2秒でみんな信じた。

大人の声は届かず、何倍もの力で弾き返すのに、友の声はスポンジのように吸収して我が身になる。

信じたというか、自分たちで神様を創り出した。石を積んで、枯れ葉を集めて、祭壇らしきものを作り

神様のことはトップ中のトップシークレットとなり、必死でみんなで守った。何からかは、わからない。

見えない何かから、守ってた使命感があった。

神様にはお供えをしなきゃと誰かが言い、それぞれ順番に神様へのお供え当番を決めた。

お供え当番になった人は、給食中にパンや牛乳など先生に見つからないように服の中に隠し、裏山に運ぶ。ヤクの売人のようなスリルがたまらなく、痺れた

袋とかは使わない、服の中に隠すのがミソだ。

そして、どうゆうわけか、お供えした食べ物たちは次の日お参りに行くと、なくなっているんだもん。これまた痺れた。千と千尋の神隠しが流行る、もっと前に、私たちの間で【牛乳とパンの神隠し】が流行っていた。




そんな一連の思い出を、先日息子が創り出した神様見て、思い出した。

思いっきり森遊びをする子育てサークルの活動中。3歳の息子が木の枝をおもむろに雪に立てて

【神様】と言った

その枝の先に雪玉をつけたら、モチモチの木のような、なんとも言えない素敵な神様になった。

その神様に向かって『みんなを守ってください』と小さな声で呟いたのち、

息子は『かんじーざいぼーさーぎょうじー、はんにゃーはーらーみーたー』とほんの少し覚えている般若心経を唱え出したもんだから、笑った。

新型コロナウイルスの報道が騒がしくなってきた日だったもんだから、その祈りが叶うと良いなぁと、私も手を合わした。

あの頃、刺激に痺れたいと思っていた感覚を。息子の枝のオブジェで思い出すとは。


子育てってやっぱり面白い。

息子や、君のおかげで、時空を超えて、あっという間に

あの日の裏山に、私はいたよ。

これからもそんな瞬間、たくさん下さい。




サポートして頂けましたら、そのお恵みをぎゅっと握りしめて。こんな時でもお店を開け続ける地元の飲食店にダーっと走り、キンキンのおビールをガーッ飲みながら、明日への英気を養います。カウンターで出会ったノリのいい奴に1杯おごる気持ちでぜひ。