見出し画像

輝ける場所として

上手じゃないけど好きなこと。
上手じゃないけど好きだから、続けられたこと。


(2023/3/28時点で)人生の三分の一以上の期間、「ダンス」を習っていた。
バレエから始めた身体的自己表現は、いつの間にかヒップホップ、ジャズ、ハウス、パンキング(ワック)といったジャンルにまで広がっていった。
コンテストで賞をとったり、教室内での選抜メンバーになったりということもなかったし、周りと比べても、身長や力強さもなく、特別「ダンスが上手い」わけではなかったと思う。

それでも、踊ることは好きだった。
踊っている自分の姿が大好きだった。

レッスンの度に母が動画を撮ってくれて、それを何度も見返して、家にある大きな鏡で練習する。振りを覚えるだけじゃだめで、魅せ方を自分なりに探し続ける。また次の週には新しい振りが落とされる。この繰り返し。

その繰り返しの中でどんどん美しくなる私の姿が大好きだった。

何事も周りと比べがちの私だけど、唯一(と言っていいほど)、自分の姿だけを見つめられて、何よりその姿を自信を持って「好きだ」と言えるのが、「踊っている時の私」だった。

レッスンに通うことは高校生の時に辞めてしまったけれど、ちょうどその頃に「踊ってみた」というインターネットカルチャーにハマった。私は、「踊ってみた」の魅力の一つは、誰でも簡単に始められて、自分を自由に表現できるところだと考えている。其処には、上手い下手といった優劣よりも、「好き」という気持ちで突き動かされた輝きがたくさん散りばめられているように思える。(この話は、また何処かで。)


私は、今でも一人でスタジオを借りることがある。
適当に好きな音楽をかけて、身体を動かし、何かを表現する自分の姿を鏡や画面越しにみる。
それが、自分の中の輝きを取り戻す行為であり、かつ、輝く自分を確かめる行為なのだと思う。

(あ、私、まだ輝けるんだな。それなら、だいじょうぶ。)

私にとって、踊り舞う自分の姿を見ても、そこに美しさを見出せなくなってからが、人生の本番なのかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?