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【 読書感想文 】『 夢の木坂分岐点 』ひじょうに難解でいろいろな読みとり方ができる小説

好きか、嫌いか、熟練の木こりが、マキを真っ二つに割ったように分かれる作品である。
嫌い、といわれるかたが多数だと思う。
そして、嫌いといわれるひとたちは、たいへんに正直者だ。
こむずかしい小説は、なんとなく理屈をこねあげて、高尚なものだと思いこまなければならい風潮があるように感じられる。
その世相に負けず、嫌いと宣言なされるひとたちは、正直者でアナキーストである。

好き、というひとも、じつは半分以上のひとたちは、何を書かれているのかわからず、したり顔でそれっぽいことをいうか、書いているだけのように思う。
つまり、『 夢の木坂分岐点 』を読み、深層心理やら夢やら、象徴やら、こむずかしい言葉を並べておけば、識者ぶれる。

そんな、得意げに胸をそらし、鼻を高くそびえさせ、ティッシュが動くほどに鼻息もあらく、あーだー、こーだ、賢しげに理屈ぶっている読者を笑殺させてやる、という筒井康隆氏の意図があるようにも感じられる。

『 夢の木坂分岐点 』の文庫本には、巻末に評論家の解説があった。
解説を読んでも、ほんまにそうやろか、としか思えない。
作者が、じぶんの書いた小説を批評するときは、一批評家であり、最高の批評家でない、という言葉ある。
この『 夢の木坂分岐点 』は、筒井康隆氏に、どのような意図をもって書かれたのかを訪ねないことには、氏の企み、挑戦、実験、寓意が見えてこない。

つかみどころのない小説である。つまり、読者はどのように読んでも、好きなように感じとればよいのだ。
小説は自由である。筒井康隆氏の主張である。
わからなければ、わからない。
文章や描写がオモチロイとおもえば、それでいいのである。
オモチロクないと放りなげたあと、あなたの頭のなかに夢の残滓のような小説の言葉がこびりつき、ひまなときに、文庫本をたぐりよせ、ページをめくると読みすすめられるかもしれない。

また、わかったゾと思ったひとも、二度三度と読みかえすことで、平面の丸い円が、じつは円柱や円すいだったと気づかれるかもしれない。
文学部の学生が論文を書くため四苦八苦し、批評家があれやこれや重箱のスミをつつくような大変むずかしい小説だと思う。

物語は、夢のなかから始まる。
その夢を見ている人間がいる。その人間の暮らしも生活、仕事も書かれている。
そして、いつのまにか、その人間の名前がかわり、暮らしも生活、仕事もすこしズラされている。
そのズレは、分裂する。いま、どの人間の話を読んでいるのか読者は混乱する。
このズレは、多次元、もしくは平行世界を描いている小説なのかと思わされる。

よくよく丹念に読みとけば、どの人物のことを書いているのはわかる。
斜めに読むと、どの人物のことを書いているのかわからなくなる。
人間の名前も、大が小になったり、嫁や娘の名前も微妙にかえてくるので、よけいに手ごわい。
筒井康隆氏の小説のほとんどは、おれ視点だ。
けども『 夢の木坂分岐点 』は、作者視点にも変化する。
おれが彼にかわる。
筒井康隆氏の技量をもってして違和感なく、無理なく視点をかえられているが、視点変更が気になるひともいるだろう。

多次元、もしくは平行世界の物語とおもい読んでいると、劇セラピーの話が混ざりだす。
そして、筒井康隆氏のテーマである夢が混ざりだす。
そこからは、流れ橋をわたるように、ふらふわ、ふわふわと物語が、ぬるぬると動きだす。

そして、物語の象徴といえるチンチン電車や侍、ヤクザ、表題にもなっている夢の木や坂が文章のあちらこちらにちりばめられている。
その象徴にどのような意味を持たせているのか、それはわからない。
読者が考えるしかない。小説のなかに正解はない、と感じた。

『 文学部唯野教授 』のなかで筒井康隆氏は、このように書かれている。
象徴に意味をさがす批評家がいますが、的はずれなことばかりを書いているんですよね、と。
象徴に意味をもたせるのは、むずかしい行為だと思う。

さいごに、多次元と夢は、劇をとおして一つの結末にたどりつく。
え?ラストどうなったの?と、思われるひとが続出するであろう結末にたどりつく。
あぁ、モヤモヤするんじゃ!と、夢の中心でモヤモヤを叫ぶ。
筒井康隆氏の小説を読んでいるかたは、モヤモヤするエンディングにならされているだろう。
筒井康隆氏は、物語の結末をしっかりと書く必要はないと書いている。
このモヤモヤは、ラーメンを食べたあとに、奥歯のスキマにモヤシが挟まった時とよく似ている。
とれそで、とれない。わかりそで、わからない。
暴論になるが、モヤモヤをたのしめなければ、筒井康隆文学を愉しめないともいえるかもしれない。

『 夢の木坂分岐点 』は、谷崎潤一郎賞を獲得している。
そういえば、谷崎潤一郎も地震がこわくてふるえ、夢か現実かわからない小説を書いている。
地震の波紋がおそってきたり、大通りの四辻にたちつくしたりと、関東大震災を体験なされた大谷崎の苦悶や苦闘が、文章のふしぶしからしみでてくる怪作だった。
夢か現実かわからない小説を書けば、谷崎潤一郎賞を獲得できる、かも。
ただ、素人が、てきとうに夢と現実を混ぜた小説を書いても審査員には見抜かれるだろう。
ちなみに、2024年は欠席なされていますが、2023年まで筒井康隆氏が選考委員をつとめています。お元気だなと思いました。

『 虚人たち 』も、泉鏡花賞を獲得している、こちらは、まだ読みやすい。
企みが見える。
筒井康隆氏の作品は、理解しにくい長篇が賞を獲得する傾向にあるのかもしれない。




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