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なりたい自分 禅的生活をみにつけ、書けねんでも書ける人間に私はなりたい


食えなんだら食うな。 
そのように思える人間になりたい。 
 
どのように成長したいか、どのような生活をおくりたいのか、どのような職業につきたいのか。 
40歳をこえると、自分の位置はここだ、さがらないことだけに気をくばり、将来と成長に目をむけない。 
自分の将来と成長をあきらめている、といっても過言ではない。 
あきらめたら、そこで試合終了ですよ、有名なキャラクターの顔がうかぶ。 
 
他人をねたみ、そねむ。 
おかみの腐敗をなげく。 
趣味は酒を飲むことだけ。 
そんな私のド玉に氷をいれシェイクしてくれた言葉。 
それが、食えなんだら食うな。 
 
出家したあとに、食べるものがなくて死んでしまうのが心配で出家できないんです、どうしたらよいでしょうか。
曹洞宗の開祖・道元はこたえた。 
出家したあとに、食べるものがなくて死ぬならばそれでよし、と。 
出家したという行いが功徳になる。 
そして、しっかりと修行していれば生きていくのに必要な食べものは手にいれられる、と道元はつけたす。 
そんなむちゃな、と私はおもった。 
そんなむちゃを押しとおし実践なされた住職が戦後におられた。 
食えなんだら食うなを実践なされた禅僧がいた。
食欲から物欲、性欲までを手放した人間の姿はまばゆい。 
 
まばゆすぎて、凡人であるところの私は、まばゆすぎて直視できない。 
また、いまの生活を捨てて出家する勇気もない。 
出家しても野垂れ死ぬ未来しか見えぬ。 
ゆえに、すべてを捨てて生きる人間を尊敬する。 
子どもが、ヒーローにあこがれるように、私にとってすべてを捨てて生きる人間はあこがれであり、ヒーローといえる。 
 
子どもが、あこがれのヒーローにちかづくために、お面を買い筋トレするように、私もヒーローにちかづくために日々の生活と行動をととのえる精進をはじめた。 
出家して食べるものがなくて死ぬよりも楽だとおもい、禅寺で修行するひとたちの暮らしにちかづこうと日々精進している。
 
まず着ていない服を捨てた。 
そして、最低限の服しか買わないと決めた。 
人に笑われない服であればよしと考えるようになった。 
日本の人口はへっている。けれども、毎年毎年デザインのちがう服が作られ、服の購買数はふえている。 
日本人は、3年以内に服をすて、また買うという統計もある。 
服を作るのにも捨てるのにもエネルギーが必要だ。 
服を買わないことは、個人でできるSDGsといえる。 
 
つぎに、自己啓発本のバイブルともいえる『 幸せになるゾウ 』にも書かれている便所掃除を毎日おこなっている。 
『 幸せになるゾウ 』のネタ元は、禅の掃除からだとおもう。 
禅寺の便所は、とても奇麗に磨きあげられていることで有名だ。
夜な夜な住職が、便所のすみからすみまで雑巾を駆使し丹念に磨きあげている。 
便所を掃除している姿をひとに見られてはいけない。 
ひとに見せびらかすためにおこなう善行は、善行にあらず。
ひとの目がなくとも善い行動をし、功徳をつみなさい、それが禅の教え。
だから、禅寺のえらい住職は、夜な夜なコソコソと便所を掃除し功徳をつんでいる。 
なんにせよ、ピカピカのトイレで用をたすのは心地よい。 
 
禅は達磨(だるま)大師からはじまった。 
極論をいえば座禅さえ組んでいればよい、という教えともいえる。 
毎朝、壁にむかい座禅をくんでいる。 
はじめは3分も座っていられなかった。すこしずつ座る時間がのびてきた。 
30分をめどに白い壁と対峙している。
たまに、もうすこし座禅を組んでいたいと思うときがある。 
これが、いわゆる禅ハイというものか、と思った。 
鼻づまりがきえ、脳に新鮮な空気がおくりこまれたように頭がすっきりとし、目のまえが澄んでみえるように感じられる。
そのかわりに、左肩がこる。 
また、座禅は、座布団さえあればできる。 
絵画やつぼを買う必要がない。やる気さえあれば、いつでも、どこでも、いますぐに座禅をはじめられる。 
しかも、座禅をつづけていると、ブッタや達磨大師、道元、一休さん、良寛さんのように大悟できる可能性もなきにしもあらず。 
 
禅寺といえば、精進料理。 
ベジタリアン料理というよりも、精進料理というほうが、格好いいとおもう。 
おもいませんか?おもいますよね? 
さて、エセ精進者なので、とうぜんに肉も魚も食う。 
いまのところ栄養不足におちいっていない。 
それどころか、体重はふえている。 
ブログ記事のために、腹八分め以上に食べものを摂取しているのが原因だとおもわれる。 
精進料理のせいでふとっているわけではない。腹八分めにおさえた精進料理を食べておけば、まず太ることはないだろう。 
暴論かもしれませんが、太っている坊主は信用できない、と私は思っている。

さらに付けくわえると、精進料理は財布にやさしい。 
豆腐やお揚げ、こんにゃく、納豆などは、作るのにテマヒマがかかる。そのわりにお手頃価格で買える。その食材で料理をつくる。 
なので、精進料理は、この大増税時代にてきしている。 
 
禅の教え的には、公言しても、書いてもいけないのですが、寄付もしています。 
書いてはいけないと書きながら、書くという俗物な書き手です。 
 
日々の行動に気をつけていると、物欲と性欲がなくなる。 
食べるぶんをまかなえる畑をたがやし、じぶんで育てた野菜で精進料理をつくり食う。 
ゆっくりと座禅を組み、しずかに生きたい。 
じぶんが書きたい文章だけを、ツレツレなるままに書きつらね、静かに生きていたいと夢想する。 
 
目覚まし時計におこされることなく、満員電車につめこまれることもなく、頭髪をはげちらかした上司におこられることなく、理不尽なクレームをつける客にいじめられることもなく生きる生活。 
人が人らしく生きる理想の生活ではないだろうか。 
 
してみると、大悟なされたあと山奥の庵にすみ、飄々といきた良寛さんこそ理想な生き方ではないだろうか。 
良寛さんの生き方を理想だと人はおもい、うらやましがる。
だから良寛さんは、いまの世にも人気なのかもしれない。 

また、良寛さんほどひっそりとは生きなかった一休さんを忘れてはいけない。 
琵琶湖のほとりで大悟なされたのちに、世をただそうと自由奔放に思うがままに生き、世を皮肉りたくった行動をとった一休さん。 
その一休さんの破天荒でありながら、しっかりとした芯がとおった行動にひかれる人もおおいだろう。 
 
ふたりに共通することは、禅僧だった。大悟なされた。そして女性にもてた。
もてたかはわからないが、女性との交流はあった。 
また、いまの世の人が良寛さんと一休さんにひかれるように、おなじ時代に生きた人たちも良寛さんと一休さんにひかれた。 
人をひきつける魅力があったおふたりは、食べるものを提供してもらい、なかなかによい生活をおくられていた。そのような文献がのこっている。 
しっかりと修行なされた結果、食べものがを手にいれられる。
道元がいわれたことは正しかった。
禅でいうところの悟り、大悟なされたふたりは、人を強くひきつける魅力があり、令和のいまもふたりの名は綿々と語りつがれている。 
 
良寛さんとおなじように暮らされた禅僧もいる。 
一休さんのように破天荒な行動をとった禅僧もいる。 
大悟なされた禅僧もいる。 
彼らの名は、ふたりほど有名ではない。 
食えなんだら食うなの作者もふたりほどに有名ではない。 
 
有名と無名の差はなにか。 
いま風にいうならば、持っているひと、持っていないひと、ということになるのだろうか。 
おなじ生活をおくっていても、おなじ行動をとっても目立つひと、目立たないひとがいる。 
おなじような文章を書いても目立つひと、目立たないひとがいる。 
 
目立つ、目立たないの差は、つまるところ、人間的魅力の差からくるのではと考える。 
目立つひとをうらやむ、人間的魅力をもつ人にあこがれる、もっともっと目立ちたいと思うこと、それは承認欲求とよばれるものだろう。 
 
禅的な思考の対極にある承認欲求。 
過去の偉大な禅僧たちは、良寛さんや一休さんほどに知名度がないと知り怒ったり、嘆いたり、うらやんだりするのだろうか。 
過去の禅僧たちが、どのように思うのか、それはわからない。 
 
けれども、承認欲求をできるだけ遠ざける方法はわかった。 
いちばん楽に承認欲求を遠ざける方法、それはSNSを断つ。 
もっとも楽に承認欲求を遠ざける方法だけども、もっとも行うのがむずかしい方法かもしれない。 
 
私にも承認欲求はある。 
書いたnoteに、たくさんのスキをもらいたい。 
スキをもらえずに嘆くこともある。 
たくさんのスキを集めているnoteの作者をうらやむ気持ちもある。 
 
魅力不足、影響力不足、文章力不足の人間なんだと私はみとめた。 
うらやんだり、嘆くぐらいなら、不足している部分をうめるべきだと気づいた。 
スキをあつめているnoteを読み分析する。 
名作とよばれる本を読む。 
人に認めてもらいたいと思うヒマがなくなるほどに、分析し本を読む。 
 
そして、身につけた技術を書く文章におとしこんでいく。 
誤字などないか、主語と述語は離れすぎていないか、漢字とひらがなのバランスはどうか、書く文章を、禅寺の便所のようにていねいに磨きあげていく。 

文章のことを考えていると、別の承認欲求がわきあがる。 
人をひきつけられる魅力ある文章を書きたいと。 
その承認欲求をかいならす。文章を磨く原動力とし承認欲求を利用する。 
そして、文章を書きつらねている。 
 
書いて、書いて、書いても認められない。 
たまに努力だけの問題ではなく、才能と魅力が欠如しているのではと不安になる。 
書くのがひどく辛くなる。
キーボードをたたくのが嫌になる。
 
書けねんでも書け。 
私は、そんな人間になりたい。 
自分がよいと思う文章を書きつづけられる人間に私はなりたい。 


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