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【エッセイ】東大受験の思い出

この記事は以前フェイスブックで友人限定に公開したものです。丁度、さくらももこさんのエッセイ集「ももの缶詰」を読んでいた時期で、自分もエッセイを書こうと思い立った時期でした。なるべく楽しく読めるように気軽に書いたので、もしよろしかったらお読みください。それではどうぞ。

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さて、今日はみなさんに退屈しのぎになるような読み物を書こうかと思いまして、あれやこれや題材を探してみました。いままで書いてこなかった題材に、僕の東大受験体験談があるのを思いつき、今日はこれを語ってみようかと思いました。面白くかけますでしょうか?
僕は、高校の3年間は部活に夢中になり、遊びほうけてくらしていたので、現役のときにうけた京都大学は見事に落第し、楽しい浪人生活がはじまったのでした。せっかく浪人するのだから、東大を目指そうということになり(家族誰一人期待しない中)駿台の東大受験コースという浪人専用のコースに入塾しました。これは朝から夕方くらいまで授業を週5日受講するコースで、普通の学校みたいだったし、松戸から御茶ノ水まで通う定期券にも学割がききました。東大理系コースは4つにクラス分けされており、一クラス100人以上はいるという状態でした。僕は入塾テストの結果、1番上のコースの12番目だったらしく、席順も12番目でした。(成績で席順がわかるので競争心を掻き立てようという魂胆なのでしょう。)4月になり、授業が始まると、まあ予備校講師というものは面白い人ばかりで、なるほど飽きさせないような授業をするものでした。なかでも奥井潔という英語の老教師の授業は、受験勉強というより、人生講義とでもいうべき、風変わりなものでした。難解な英文学のテキストを使うのですが(これは難しすぎて家では予習ができなかった)英文学を解説していきながら、いつのまにか、話題は人生の深い話に変わっていくのです。まだ20にならぬ若い頭脳に、元特攻隊の老教師が人生を指南していく名講義でした。カルティベートとはかのような事をいうのだと今でも思っています。その講義のおかげで人生の視野が広くなり、そのことにより難解な英文も読めるようになっていたのです。他にもいろいろな教師がいて、大講堂なのにマイクを使わず、大声を張り上げて講義する漢文の講師だとか、早稲田大学の教授だったのが、事務ともめてクビになり、駿台にやってきた先生とか、東大の天才物理学者と言われていたけれども、学生闘争で学校を追われ駿台にやってきていた講師とか、まあとにかく恵まれていました。偉人、奇人、変人、を寄せ集めた講師の布陣でした。ただ、月日がたっていくうちに、講義を聴いているだけではだめだ、自分で手を動かさなくては、と思うようになり、これはという講師の授業のある日以外は、予備校を休んで、家で一日20時間くらい勉強するようになりました。まったく苦痛ではなく、勉強だけしておけばいい身分なので、実に楽しく勉強したものです。東大を受験するといえば、家族もすこし甘くなるようです(笑)。40日完成の受験問題集を3日で仕上げたり、とにかく勉強しました。
僕の受験の作戦は、全教科でまんべんなく点をとる、というものでした。そのため一つの教科をやりすぎないように時間配分とかに気をつかって、(一つの教科ばかり勉強すると飽きてきて効率も落ちる)数学、英語、国語、と気の向くままに勉強していきました。東大模試では、意外にも、僕は国語が一番成績がよくて、偏差値が90くらいいっていました。成績上位名簿にも名前がのって全国17位くらいだったと思います。数学も成績はよかったです。そんなこんなで、模試でもA判定がでるようになりました。冬になるとセンター試験というメンドクサイものが割り込んでくるので、1ヶ月くらいはセンター対策をして、無事2次試験の足きりに引っかかることもなく、2次試験を受けることができました。
2次試験は2日間のわたって行われるのですが、1日目は非常によくできました。そこで気をよくして2日目に備えたのですが、そこで思わぬ問題が発生してしまいました。
興奮して眠れないのです。2日目はほとんど徹夜のまま試験を受けることになったのですが、理科の受験中についに気分が悪くなってしまい、6問中3問解いたところで、手をあげて、保健室につれていってもらいました。保健室で寝かされているときに、そこにいたおばちゃんが「来年もあるから、大丈夫よ~」などと縁起でもない慰めかたをしてくれます。
とにかく次の英語の試験までには体調を治さなくてはとおもい、ぐったり寝ていると、次第に気分が良くなってきて、なんとか英語は受験することができました。奥井先生のおかげか、英語はえらく簡単な問題だったので、体調が悪い中でも、なんとか問題を解くことができ、無事帰宅することができました。理科で退席した話を両親にすると、もう落ちたものと決め込んで、ひどくがっかりしていましたが、僕は、他の教科でけっこうおつりがくるほど取っていると思っていましたので、たぶん大丈夫だろうと思っていました。
合格発表を見に行くと、自分の氏名が書いてあり、胸をなでおろしたものです。アメフト部の万歳は恥ずかしいので、遠慮させてもらいました。
受験が終わると、予備校仲間や、高校時代の友達が、自然と集まるものです。入学式まで、ゲームセンターやレストランによくいったものです。いま思えば、人生の中で一番気楽にすごしていた時期でした。大学に入れば、就職、進学、成績、恋愛、苦悩など、若者にとってはどれも重たい課題が降りかかってきました。子供から大人への過渡期でした。

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