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非言語は時代を繋ぐ

こんにちは。色んなことをひらめきすぎてTwitterにアウトプットしてはまたひらめき···そんな無限ループを抜け、そろそろnoteに書き起こしたいおかゆです。

というわけで、今回はnoteを開けました。

六本木ヒルズの森美術館で開催されている「私たちのエコロジー:地球という惑星を生きるために」に行ってまいりました。

いろいろと、感じたものがあり、この気持ちをそのまま置いていこうと思います。

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色々と語りたい切り口はあるのだが、この展示をみた3時間の中でずっと頭の中にあったのは「質量保存の法則」だ。

例えば、↑のホタテの貝殻のインスタレーション。ホタテの養殖と共に、貝殻の廃棄問題が生じている。

貝関係で、真珠貝の気持ち(人間視点)をきける展示。人工真珠のために作為的に核を注入される真珠貝が恨みつらみ怨念を吐き出しており、だんだんぐったりしてきた。

話を戻そう。なぜ、質量保存の法則かというと、この世界には「可逆なもの」と「不可逆なもの」が存在していて、不可逆なもの、もしくは自然に還らないものはどうしてやればいいのか?と頭の中に浮かんでいたのである。

···まだわかりにくいかもしれないので、例えを。

例えば、水。
水は、低温にすれば氷になるし、常温ではまた水に戻る。これは可逆といえる。(正確には蒸発してるかもしれないけどこの場では細かい部分は抜き)

不可逆でいえば、ペットボトル。
生分解性の素材を使えば、肥料にできたり、自然と土に還っていく。しかし、非生分解性であると、海の底に沈んでしまったら一生そのままなのだ。

(道に捨てたり、分別テキトーにしてませんか?)

そうして、他国の海岸に流れ着いたり、クジラのお腹の中に入ったりしてしまう。そのままで、何にもなれない、もしくは生命に害を為す存在になってしまうのだ。

だから今回の「エコロジー(生態学)」を考えた時に、どのように循環するのか?がずっと脳内にあり、物質の変化といえば「質量保存の法則」だな、とぐるぐると巡っていた。これは何に置き換わり、なんのエネルギーが生じているのだ、と。

(真珠貝の展示は、今思い出しても心が痛い)

今回の展示によると、真珠はもともとは海外のとある国で天然からとれるものがあったが、日本が養殖に成功して人工真珠を量産したゆえに、もともと天然で売っていた国の産業は衰退したらしい。

日本の養殖で栄えた人もいたしその人たちの生活もあるが「貴重なもの」を量産するのはなんだかとても日本らしいなと、また心がズキズキした。

別の展示の話にうつろう。

AIで開発された、カメ。彼は「1000(サウザンド)」と名付けられている。展示期間ずっと成長し続けているらしい。私が見た時には鉢植えに頭をぶつけてピカピカ光っていた。(そろそろ進化するんじゃ)

この展示にとっっても惹かれた。上の画像では、カメのバイタルデータのようなものが表示されている。

鉢植えにぶつかったときは「pain」があがる。

なんだかこのデータをみながら「人間もこんな感じだけど、ものすごく複雑にできてるんだよなぁ」と項目が無限に頭に浮かんだので考えるのをやめた。
サウザンドくんは展示が終わったあともぜひ成長を見守りたい。

いつか恐竜とかこういうので成長を見守れるんじゃないかな。SDGsや生物多様性の話も年々声が強くなっているように思う。そのうちに、水族館や動物園がなくなって、データで再現された動物たちを見守る日がくるかもしれない。

(そういえば、小学校のときに「動物園はあったほうがいいか、ない方がいいか」という2陣営に分かれた議論みたいな機会があり、私は「ない方」にたまたま振り分けられて、わりとこの論説を自然にしていた記憶。過激な思想はないが、大人になるほど好きだったはずの水族館を複雑に思うようになった)

その他、環境問題の変遷のような年表をみながら

「人は発展と共に地球環境を破壊しながら、問題が体感できる範囲になって初めて総出で対応し始めたのだな」
「猛暑やゲリラ豪雨って比較的最近できた言葉なんだ」
など、人類の発展は地球環境の歴史だ、とまた心が傷んだ。

その他色々とひらめくことがあったが、言葉にすると本当にそうなってしまいそうなので、胸に秘めておく。

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現代アートにふれた感想として。

「言語を超えたい」と心から思った。

私は言語化はわりと自然にできるらしい。仕事でもコーチング·対話をしているので、きっとこういうことかな?とまとめると「言語化していただきありがとうございます」と言ってもらえることが多い。

今起きていることは本質的にはどういったことが課題なのか、どこに向かっているのか、どんな構造になっているのか。

今までの私個人の経験や、300名以上の対話した人たちのこと、読んできた本や著名人の発言や史実など、ありとあらゆる情報を駆使して体系化させる。

「構造化したがる」ところがある。
言語や図解によって。

最近、もっと表現の幅を広げたいと思うようになった。少しずつ話せるようになったからかもしれない。

あとは、言語に限界を感じる。私は語彙が多いわけではないし、私が持つ辞書だと毎回同じようなところにおさまってしまい、それはなんだか聞き手にとっても面白くないんじゃないか?と思ったりする。

(変わったことをしたい願望)

あとは、国境とか、文化とか、そういった境界を超えたいのだ。

だから、非言語コミュニケーションを磨きたい。

今のところ、水彩画を描きたいのと、感動した瞬間に写真を撮るのは好きなので、絵か写真になりそうである。

画像生成AIも好きなんだけど、つくる過程で気持ちをこめたいというか、私だけにしかできない、手にとれるものがほしいのだ。

私の中でまだ発達していない感覚が、これらの表現を助けてくれるんじゃないかと思う。

今は、もっと言語を磨いて、ゆくゆくは非言語を。

あとは、新しい言語もつくりたい。歌でも、リズムでもいい。

まっさらで、差別がなくて、自由で、寛容な、コミュニケーションをしたい。

そんな想いが溢れる3時間だった。

アーティストになりたいし、学者にもなりたい。学者だったらなんの学位だろうか。
まだ見ぬ旅は続く。

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アートを見ると、とんでもなく思考が解放される感覚があります。

もし非日常を味わいたい方、自分の内面世界に浸りたい方におすすめです。

独り言をみていただき、ありがとうございました。
それでは、また。

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