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それは残そうと思った人が残したもの

自分が大学生だったのは、もう20年も前の話だと気が付いたのはキリよく40歳になったからだ。

私って大学で何を学んだんだろう・・・・・・

「史学科だったので歴史を学んだんじゃないの?」

なんて、そんなしょーもないことは言わないでおくれよ

歴史が好きだからという理由で選んだ大学であることは確か、

実家からチャリで通えて…という言葉も付け加えておこうかな?

大学に通い始めてから、教授が研究しておられる歴史の深いところを教わる毎日にトキメキを覚えていたが、

何よりもありがたかったのは

「その歴史って本当にそうだったのかな?」

と疑問をもって発言することを、当たり前のように許された環境だった。

「君のその考えを否定することは先生にも、誰にもできない、それを否定する完璧な書物が出てくるまではね」

先生方は疑問をもつことの大切さ、想像力を養うこと、その事項に向き合い方を教えてくださり、それを自分で調べるように促してくれた。

そんなありがたい大学生活の中でも一番印象的だった先生の授業でのお話


「これから歴史を学ぶ貴女たちへ話しておきたいことがあるのよ」

お名前は忘れてしまったが『女性史』の先生が最初の授業で私たちに話してくださったこと

「これまで貴女たちが学んできた歴史も、これから貴女たちが知ることになる歴史も、すべて誰かが残そうとして残したものであるということを念頭に置いて学んでください」

歴史というのは勝者がつくってきたものであるということは言うまでもないことだが

それが連続して今にたどり着いているということ

残っている歴史を、また残そうとした人たちがいたことで、現代の私が学んでいるということ

その連続、それ自体もまた歴史の一部であるということだ。

これは当時まだ18歳だった私の胸を熱くした。


「どこにでも行けるとしたらどこにいこうと思いますか?」

小学校6年生の時、担任の先生がクラスの私たちに質問した

「平安時代」と手を挙げて大きな声で言ったのは私だ。

「フランス」「アメリカ」と同級生が続いて発言した時、

(行きたい国を聞かれてたのか)と恥ずかしい想いをした。

しかし、今になってみると別に恥ずかしいことでもない。

当時の私は貴族しか出てこない平安時代の歴史に疑問を持っていた。

教科書では語られていない平安の庶民も、一人一人その時代を生きていたことを確認したかったのだ。

残そうと思って残った表の歴史があるということは、その裏にはひっそりと隠れている何十倍もの歴史も存在する。

それは、今を生きる私たちの誰もが何にも邪魔されることのない自由な想像を許された空間であるのかもしれない。


戦国の世であれ
多様性の時代であれ

人間である以上は食べなければならず、
食べたら出さなければならない。

雨が降ったら傘をささないと、誰でも濡れてしまうのだ。

歴史を学ぶことは、
学んだ歴史のその奥を想像して想像力を豊かにすること
学んだ歴史は今の自分とつながっているのを知ること

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