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2020年3月17日 -Wikipediaという、最高の文学に見る「文章としての崇高さ」

 

 Wikipediaが好きだ。もともと、食品の成分表示や、家電の取扱説明書などをかなり読み込むタイプである。ガチャガチャのカプセルの中に入っている、小さな紙も隅々まで読み込む。ぷっちょの包み紙に書いてある、ぷっちょのキャラクターの説明文も読む。なんでも読む。

 これらに共通するのは、「たくさんの、なにかを説明するための文字列」という所か。
意味の無い文字の羅列が好きなわけではなく、それが何かを説明するものである必要があるらしいのだ、どうも。ヨーグルトの成分表示はヨーグルトの成分を説明している。プリンターの取り扱い説明書は、プリンターの機能を説明している。

 そもそも、人は、誰かに何かを伝えるために文字を生み出した。そういう、文字の「何かを客観的に説明する」という本質をより強く感じられるからだろうか、私はこういったものたちを染み染みと読み込んでしまう。

 前置きが長くなったが、こういったものの真髄が、Wikipediaなのだ。だから私はこんなにもWikipediaを愛している。

 さて、当たり前だがWikipediaの文章は客観的だ。百科事典なので、事実しか書いていない(先程述べた説明書や成分表示もこれに分類されるだろう)。
いい文章とは、書いた本人のエゴを感じさせない文章である、と思う私にとっては、Wikipediaは最高の文学なのである。筆者は確実に存在するのに、それが見えない。なぜなら、そこは客観的事実だけが詰まったWikipediaという透明な箱の中だからである。それが心地いい。

 もちろん、私は主観的文章の代表、小説もよく読む。客観的な記号である文字を組み合わせて、圧倒的な主観を編み上げる……小説のそういう所が魅力的だと思う。
 ただ、何気なくページを繰っていると、指先に痛みが走る時がある。作者のエゴという名の細かいトゲが、文字と文字の間に隠れているのだ。私は凄く厭な気持ちになる。直接に自慢話をされるより、なんとなく疲れるのだ。それは多分、突発的に口をついたものではなく、いくらかの推敲の上で、残されたエゴだからだと思う。
 そこでエゴを切り捨てなかった文章は、なんとなく嫌な、湿ったような空気がするのだ。それは作者がどうしても捨てられない、だれかに分かってほしい、という思考の死骸だから。予期せず他人のそういう、本質に近いところを見てしまうのが、たまらなく怖い。

繊細すぎますか。それか、皆が皆、そういった嗅覚が鈍麻しているのでしょうか。

それについては、よく分からない。すみません。

 とにかく、周りの人間や、自分自身のエゴにうんざりしたら、Wikipediaを読むといい。そういう時に下手な小説を読むと、書き手のエゴに余計にうんざりさせられると思う。Wikipediaは、21世紀文学の完全体だということを、私だけが知っている。後にも先にも、こんな崇高な「文章」は、ない。

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