ランドスケープで狂わせて
柴田は言った。「もし、お前が確かに辛い状況にあって、全てを終わりにしてしまいたいと思ったら、最後に連絡してくれよ。止めはしないさ。ただ、俺の代わりに頼みがあるんだ」
ある春の日、クローゼットの中でふとそんな事を思い出した。携帯の連絡先には「シバタ」の文字があった。そんな約束覚えているわけないと思いつつ、発信ボタンを押した。3回ほど発信音が鳴った後、柴田が電話に出た。「久しぶりだな、とりあえず今から行くからそれまで待ってろよ」
それだけ言うと電話は切れた。待ち合わせに指定されたのは名古屋駅近くの喫茶店だった。1時間ほどして柴田はやってきた。時計が21時半を回った頃だ。
「悪いな、遅くなった」
わざわざ東京から来たのか?
「そうさ、東京から名古屋まで1時間ちょっとで来れるんだ。便利な世の中だよ」
そう言うと同時に、柴田は胸ポケットから1枚の写真を取り出した。
「ここに行ってきてくれよ」
どこだ?
「タイだよ。ずっと行きたいと思ってるんだけど、あいにく忙しくてね。写真を1枚撮ってきてくれよ。金は出すから」
柴田は札の束を俺に渡した。
逃げたらどうするんだ?
「別に逃げたって構わないさ、でもお前はそうはしないだろ?」
そう言うと柴田は席を立った。
「ごめんな、東京行きの終電22時が最後なんだ。じゃあ、気をつけてな」
勝手な奴だ。男は1人店内に取り残された。馬鹿馬鹿しいとも思ったが、2日後に日本を発った。
タイに着いてからは、現地の人間に写真を見せ、話を聞くことの繰り返しだった。タイについて3日目の昼、ようやく写真の景色に辿り着いた。写真を1枚撮り、男は帰国した。渡されたお金はまだ半分近く残っている。帰国して柴田に連絡をすると、また同じ喫茶店を指定された。
「おおー良く撮れてるな、助かったよ。じゃあ、次はこれ頼むな」
そう言い、新たに一枚の写真を取り出した。
まだあるのか?
「いいじゃないか、急ぎの用事はないんだろう?そしたら頼むよ」
そう言うと柴田は金を差し出した。行き先はアメリカだった。写真には大きな岩が写っていた。
「ちょっと大変かもしれないけど、まあ気をつけてな」
酷く疲れる旅だった。アメリカに着いて1週間と1日が過ぎた。言語の壁を嫌と言うほど痛感したし、何よりこの国の文化は男にとって受け入れ難いものだった。目的の写真を撮り、ホテルに帰ると男はビールを流し込んだ。酒を飲むのは数年振りだった。酒は苦くて好まなかったが、この日はその苦さも受け入れることができた。翌日、男は帰国した。
「じゃあ、次も頼むよ」
柴田は、また1枚の写真と金を男に渡した。
「うん、良く撮れてる。助かったよ」
そんなやりとりを何回か繰り返しているうちに、再び春がやってきた。
「これが最後だ、何だかんだ最後まで付き合ってくれて感謝してるよ。今回はもう写真は届けなくていい。この景色を見た後はお前の好きにしてくれ。じゃあ、気をつけてな」
そう言い残すと柴田は席を立った。勝手な奴だ
。報告がいらないなら、行く意味がないじゃないか。行き先は高知県だった。写真はどこかの川のようだ。最後の行き先が国内だったことにどこか拍子抜けしたが、そんなことは関係ない
。そこに辿り着きさえすればいい、その後は俺の好きにさせてもらうさ。
かなりの田舎だった。空港からはレンタカーを走らせたが、何度も道に迷った。どれくらいの時間が経っただろう。
目的の地に辿り着くと、男は立ち尽くした。そして、おもむろに電話をかけた。
全く、凄い景色だよ。この1年間、騙されたと思って色んな地域に行った。でも騙されたことなんて一度もなかった。1年前、俺は確かに絶望の中にいた。あの日、俺が電話をかけたのも、言われるがまま喫茶店に向かったのも、
お前が迎えに来てくれるのを、俺はどこか待っていたのかも知れない。
そう言い終わると、男は川に飛び込んだ。川の水はまだ冷たかった、鼻で水を吸って痛かった
、それでも心地よかった。こんな感覚はいつ振りだろう。今、この瞬間だけは誰にも邪魔されない、それで十分じゃないか。
「勝手な奴だ」
そんな笑い声が聞こえた気がした。
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