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レッテルとラベリング-問題発言を果汁グミで考えてみた-


私が考えた問題発言の問題点

国内外問わずテレビでも新聞でもネットでも取り沙汰されている、某会長の発言。「女性蔑視」の発言として酷評され、どうやら辞任の意向を固めたようだ。今回の「問題発言」について、その取り上げられ方、批判のされ方にモヤっとした人もいるのではないだろうか。

テレビやSNSなど様々な媒体において、「女性差別的発言はよくない」「男女平等の社会に逆行している」といった「女性蔑視」を批判するコメントや、「これだから年寄り政治家はダメなんだ」「老害」といった高齢の人・政治家に対する不満が見受けられた。

私は彼は古い価値観の「レッテル」を、組織のトップと言う立場において、公でお披露目してしまったところに落ち度があったと思う。発言が社会に発信されていることを分かりながら(しかもその発言で嫌な思いをする人がいることおも承知の上で)、言葉のコントロールが出来なかった彼の進退を問われても仕方がないだろう。

その点は大いに批判されるべきだが、彼」そのものやより大きな括り(高齢者や政治家、男性)で別のレッテルを貼り返すような議論はまた違う。それは彼が発言したレベルと同じレベルに成り下がることであり、つまりは差別・いじめに等しい。

この騒動で大切なのは、「女性」だとか「男性」だとか、いやそれよりもっと「性別」とか「年齢」とか「役職」とか、そんな括りでレッテルを貼る時代はとっくに終わっていると言うことである。

では人々はどんな社会を望んでいるのだろうか。現代社会において大切にされるべきは「個」であり、その魅力を引き出すような「ラベリング」だと、私は思う。


レッテルとラベリングの違いー果汁グミだったらー

レッテルとラベリング、何が違うのだろうか。どちらも語源は「メーカーが自社の商品に貼り付ける札」からきているようだが、人に対して使うときには意味が異なってくる。

私の大好きな果汁グミを例に考えてみた。

レッテルはこんな感じ。

グミ。

どんなグミなのかはお構いなし。それは果汁グミでも、男梅グミでも、フェットチーネでも同じ。とにかく、有無を言わさず「グミ」って括られ、粘着性の高いシールでべったり貼り付けられるのだ。

一方私がラベリングするならこんなふうに書く。

甘くてちょっと酸っぱくて、大好きなあの子と、家事の合間に、仕事のお供に。老若男女に好かれる、懐かしの果汁たっぷりグミ。

お店のPOPみたいな、ヴィレッジバンガードに行ったような文言を並べる。果汁グミを見て、食べて、どこが特徴か、どんなときに食べたいか(寝ている時以外食べたいけれど)、そんなことを書く。


その「個」を知ろうとする。

私はこれが違いではないかと思う。ラベリングはいろんな角度から「個」を見る。どんな味なのか、どんな工程で作られたのか、どんな材料でできているのか…。ラベリングすることで、その「個」の良さを強調したり、果汁グミ自身が自分の個性を再認識することになる。(私は他のグミより果汁感が強いのね!みたいに。)自分では分からなかった特徴を新発見することもあるかもしれない。(懐かしいって感じる人もいるのね。みたいな。)


どんな社会を残すのかーしょっぱいグミが台頭するかも!?ー

価値観は、ある種の宗教や習慣のようなものだ。その価値観で育った人が別の価値観を体得するのは難しい。すぐに変えられる価値観を持つ人もいるだろう。人それぞれだ。しかし、「その価値観が誰かを傷つけることがある。」ということはみんな心に留めておかなくてはいけない。

議論をすることはとてもいいことだと思う。ジェンダーに関わる議論を長年避けてきた結果、今の「ジェンダーギャップ指数の低い」日本社会がある。今の大人にこの社会を作った(黙認してきた)責任がある。子どもたちに今の日本を残していくのは、あまりにも無責任だ。そして、彼が辞任したからといって議論まで辞めてしまってはいままでと同じだ。今一度、今回の問題の本質を今を作る大人が考えなければならない。

しかし議論の仕方を間違ってはいけない。冒頭に述べたとおり「女性蔑視」を批判するために「男性」や「高齢者」を悪く言うことは元も子もない。そんな「レッテル」は誰も望んでいない。するべきは「悪口を言う」ことではなく、「声をあげる」ことだ。

今主流となっている価値観が覆るときがくるだろう。時代も人も変わっているのだから。もしかしたら、しょっぱいグミが主流になる世の中だってくるかもしれない。

ただ「レッテル」をやめた皆さんならきっとそんな世の中を楽しめるだろう。しょっぱいグミの良さもきっと上手く「ラベリング」することができる。そうすればどんなグミも自信を持って胸を張って食べてもらうことができる。

誰一人同じ人間なんていないこの世の中を私たちは生きているのだから。


私が願うことー子どもたちにたくさんの「個」を見せることー

私は価値観を形成する大切な時期にいる子どもたちにたくさんの「個」に出会ってほしいと願う。未知の「個」に出会うたびに、視点が増える。受け入れられるようになる。


あの子も、あの子も、違うところがある。でもいいよね。

あの大学生も、あの社会人も、あの主婦も全然違う。でもいいよ。

海を超えたところに住むあの人も、こんなに違う。でもいいなあ。

私もみんなと違う。でもいいんだ。

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今、私はKacotamで主に中高生のオープンスペース「ゆるきち」にいる。

色んな子どもがいて、色んなボランティアメンバーがいる。ゆるゆると自分がやりたいことをやる。おしゃべりしたり、ゲームしたり、勉強したり。でもそれはただ時間を過ごしているだけではない。

自分の「個」が大切にされていると感じられる空間であり、他の人の「個」を大切にする空間だ。私はそんなぬくぬくした、ココロが温かくなるような空間が大好きだ。

自分の「個」を大切にしてもらった経験のある子なら、きっと他の人の「個」も大切にできるだろう。自分の「個」を自分の手で大切にできるようになった子は



きっと強い。

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