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音の微細な質感や繊細さ。今年はベートーベン先生生誕250年なんだってさ。

昨日はクラシックの演奏会へ赴く

ベートベーンづくし
演奏のクオリティも高くて終始興奮しっぱないだった

ほとんどのクラシックの演奏会は完全なる生楽器の演奏で行われ
小さな音の響きやテクノイズ(演奏上必ず生じてしまうノイズ)
あらゆる音が積もり積もって一つの音楽を作り上げている

人間の耳は音楽を聴くと意識している時は音楽にフォーカスされ音楽以外の音は聴こえないものとすることができる
しかし、実際には聴こえているし、咳払いのような音楽の妨げに感じられる音については雑音として認識する

しかし、本当はすべてがその空間を作り上げている

今回は座席がステージに近かったこともあり、尚更に演奏者の熱感みたいなものも感じることができた

すごく感覚的になるが、音楽の質感みたいなものをすごく感じられる良い演奏会だった

録音やスピーカーを通して聴く音は、音をクリアにして音楽における音のみを伝えるようにできている
パフォーマンスにおける熱感は感じられるが、微細な音の質感のようなものは感じにくい

僕らは作り上げられた音楽像というものに毒されている
音楽とはある一定までの空間全体を指すわけだが、そういった概念はどうやら楽譜の完結とともにそぎ落としてしまったらしい

例えば、普段口にする調味料が化学調味料まみれで、それを料理に使っておいしく食べている
外食にしても、おいしいと感じる

しかし、例えば、それが完全に自然なものだけ使われていたり
だしの素を使わずに昆布とかつおでだしを取った味噌汁を飲んだらばどう感じるか
ましてや、自分の家ではなく立派な日本家屋のお座敷なんかで食したならばどうか

クラシックを音楽を聴くということはそういったことに似ている気がする
どっちが良いという話ではない

ちなみに、化学調味料に毒された舌は自然の味を感じるに時間がかかり、場合によっては自然のものの味は感じなかったりまずいと感じることもしばしばあるようだが、この点についてもクラシック音楽は同じかもしれない

クラシック音楽を崇高なものだと言いたいわけではない
単純に、その純度のようなものの話なのだ
演奏家と音楽の距離、そして奏でられる音楽と聴衆の距離

すごく尊いもののように感じるのだ
丁寧に作られた日本料理を食す時のような繊細な音の深さみたいなものを感じる

どの音楽にもそれぞれに良さがあるので、クラシックが良いというわけではない
ただ、久々に良いクラシックの演奏会だったなぁと余韻に浸っているという話


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