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そばにいてほしい

記憶は、どこへ行くんだろう。

私は特別養護老人ホームで働いている。昨日の夜、就寝介助を行っている時、利用者の尾崎さんが亡くなったご主人の話をしてくれた。

「女癖が悪くてね、苦労したわよ。煙草をよく吸う人でね、これで死ねたら本望だなんて言って。」

尾崎さんは現在90代。ご主人を50代で肺炎で亡くしている。

「ダンスが好きな人でね、ある日どうしてもって言うから三ノ宮のキャバレーについて行ったの。私は嫌だったのよ。ダンスなんて不良がするものだと思ってたから。」

「へえ。で、どうだったんですか?キャバレーは。」

「年配の男の人がね、若い女の人のほっぺにほっぺをくっつけて踊っててゾッとしたわ。」

「笑」

「それでね、主人が何か飲み物頼め、飲み物頼めって私に言うんだけどね、私、飲み物の申し込み方も分からないから、ずっと喉がカラカラで。他の女の子らはフルーツなんか食べてるのに。腹が立ってそのまま帰ったの。」

「喉がカラカラのまま?」

「喉がカラカラのまま。」

「申し込み方」と尾崎さんは言った。派手な場所で浮いてしまった育ちの良い若い頃の尾崎さんが目に浮かんだ。

時代は恐らく1960年代あたりだろうか。若い女性に頬をくっつけて踊っていた年配の男性はもうこの世にはいないだろう。

大切な記憶を思う時、それを共有していた人が消えてしまったら、自分が消えてしまったら、記憶はどこへ行くのだろう。と、考えることがある。

いや、どこへも行かない。共有していた当事者同士が消えてしまったら、記憶も消えてしまうのだ。そんなの、分かり切ったことだ。

でも、そんな分かり切ったことを飛び越えて、どうして私は、記憶の行方なんてものを考えるのだろう。

「六畳一間のダンス教室を持ってね、私にダンスを教えるのが夢だったみたいなんだけど、それも叶わず亡くなっちゃった。」

風も桜も海も、どこへも行かない。しかし記憶だけは年月が過ぎるだけ、遠くへいってやがて消えてしまう。

生きていて、どこかずっと寂しいのはそのせいかも知れない。

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