石上神宮と布都御魂

石上(いそのかみ)神宮は奈良県天理市布留町(ふるちょう)384番地に鎮座しています。天理市には天理教の本部がありますが、そこからは少し離れています。古い神社らしい厳粛な雰囲気の神社です。
石上神宮は物部氏の総氏神であり、崇神天皇7年に石上布留の高庭(現在地)に創建されたと伝えられています。別名を石上振神宮、石上布都御魂神社、布留大明神とも言います。『日本書紀』に記された「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけです。古代の軍事氏族である物部氏が祭っており、ヤマト政権の武器庫としての役割がありました。ここにタカクラジが神武に届けた布都御魂剣が収められていると『古事記』には書いてあります。実際はどうなのでしょうか。
石上神宮の主祭神は布都御魂大神で、石上大神とも言われますが、布都御魂剣に宿る神霊とされます。簡単に言いますと、御神体はタカクラジがタケミカヅチに頼まれて神武に届けた布都御魂剣本体で、人間で言うと、その剣が体で、祭神は心ということになります。ということは布御御魂剣は伝承の世界ではなく、現実のものであるということです。神武は実在していたではないですか!ということになるのですが歴史学ではそうは簡単にはいかないです。歴史学は疑ってかかることが基本です。この剣に銘文があってそこにタケミカヅチとかタカクラジとか布都御魂とか書いてあれば決定的ですが。鉄剣に書かれていた文字が大きな話題となったのに埼玉県行田市の稲荷山古墳から発見された鉄剣があります。この剣は昭和43年(1968)に発見されていましたが、それから10年後に保存処理のためX線検査をしたところ115の文字があることが分かり、その文字の中に「ワケタケル大王」と彫られており、ワカタケルは雄略天皇ですから、倭の五王の一人「倭王武」とされる雄略天皇の存在が明らかになりました。布都御魂剣にも文字があればよかったのですが。
石上神宮にはかつて本殿がなく、拝殿の後ろが禁足地(きんそくち)とされていて、御本地(ごほんち)と称し、ここに御神体の布都御魂剣が埋められていて、それを拝殿から拝んでいました。そして拝殿には配祀神が祀られていました。明治7年(1874)大宮司の菅政友(かんまさすけ)が発掘して御神体が発見されました。長年タブーとされていた場所を掘るとは、いくら明治維新文明開化と言っても、また大宮司という立場であったとしてもずいぶん思い切った話です。菅政友とはどういう人なのでしょうか。彼は水戸藩士で医者であり、水戸藩の事業である『大日本史』の編纂にも関わった歴史家でもあります。明治7年に石上神宮の大宮司になっていますから、就任してすぐに発掘にかかったのでしょうね。こういう場所を発掘すると、バチが当たるとか祟りがあるとか言いますが、よほどしっかりした対策をしたのか、このことがあってからも20数年生きて73歳で亡くなっています。当時としては長生きの部類に入るのではないでしょうか。なお彼は大宮司の立場から、神宮に伝わる社宝の「七支刀(しちしとう)」を調べ、そこに金象嵌で文字が書かれているのを発見しました。その後の調査で、文字は表に34.裏に27文字があり、鉄刀ですから全体に錆による腐食があり、判読可能なのが49、全く読めないのが4、残りの8字は判読が試みられています。この刀は国宝に指定されており、以前博物館で実物を見ました。長さ7 4.8cm、剣身の左右に段違いに3本づつ6本の枝刃を持ち、武器というよりも権力や祭祀のシンボルとして使われたと考えられます。『日本書紀』に七支刀(ななつさやのたち)とあり、百済が倭に朝貢したときに献上されたものとされています。
石上神宮は大正2年(1913)に本殿が造営され、発掘された御神体の布都御魂剣が収められました。

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