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【聞き書き②】馬木村に暮らす山脇さんの昔話(前編)

 こんにちは。奥出雲町農業遺産推進協議会です。今回は、奥出雲町馬木地区在住の山脇憲一さん(昭和11年生まれ。86歳)に、お話しを伺いました。聞き手は、聞き書きライターの松本朝子さんと、島根大学の学生さんたちです。

1.父は戦争で家にいなかった

馬木地区の位置
山脇憲一さん

 昭和11年に私が生まれて、12年からシナ事変が起きたんです。
私の父は、私が生まれるまえに、いや、生まれてますね(笑)12年に中国へ渡って、それから17年まで..帰って来なかったですね。ずーっと毎朝、昼晩昔はこう、箱膳と言いましてね、箱の中にあの茶碗とかの皿を入れて、蓋をして、ご飯のときになると、その蓋をはぐって上に食器を出して、茶碗にご飯を入れて、お汁を盛ったり、皿に盛りつけて、それを何年もずーっと毎日朝昼晩ね。“陰膳(かげぜん)”といいますけどね。父が戦争に行ってるから、「無事で戦って、勝って帰ってくださいよ」という意味で、“陰膳”というのをどこの家庭でも。変なことをするもんだなぁと、おらんのに出さなきゃいけんのかと思ってました。
 けども。そうして、お祈りをして、「いただきます。」と、自分たちは自分たちの(ご飯を食べる)。戦争に行った人の、お膳もちゃんとつくって、同じものをつくってやってですね、昔は囲炉裏があって、その周りでお膳を、座ってご飯をいただく、だけ一つだけその何も食べない膳が毎日あってね。そげなことを覚えてますよ。
 まあ、わたくしなんかは、親父が元気にかえってきたからよかったですけども。親父は19年にまた、今度はフィリピンに行くつもりで出たけども、フィリピンに上陸できなくてね、台湾までかえってきた。うちの親父の一週間後で、私の近くの方が招集にあって出られて、輸送船がやられてね、帰られなかった。そのあとで生まれた若い人なんかは、お父さんの顔を全く知らずに七十何歳になられていますよ。残念でなりません。 
 そしてだんだん戦争が長引き、拡大して物資が不足してくると、各家庭にある鉄類は全て供出させられましてね。我が家でも大切にしていた真鍮の火鉢を取り上げられたと、年寄が本当に残念がっていた事を覚えています。安養寺の梵鐘はもちろん、小馬木川にかかっている橋の欄干の鉄の棒まで全部はずしてね、軍需品となったのです。平成に入って道路が変わるまでそのままでしたよ。
 また、私達のような小学生にも宿題として放課後とか家に帰ったら稲子(稲の葉っぱを食べる昆虫)を30匹づつ取って翌日登校時に細い針金に指して提出していました。それは、戦地の兵隊さんに送る慰問袋の中に他の品と一緒に送るために。戦争とは怖くて、おそろしいものです。大人になって後で思えば、こんな事で勝とうとしていたなんて全く馬鹿げたことですね。
 そして、いよいよ昭和20年に終戦となりますと、大変な食糧難とインフレに全国民がなやみ、とても怖い思いをすることになります。

2.闇米は着物に縫い付けて持って帰られた

 そして今度は食べ物がない。都会も田舎も、何せ百姓していても米は出来る限り供出させられているから、そこに疎開とか復員とか大混乱して、本当に山奥の自分の集落でも子供までずいぶん、ひもじい思いをしましたね。春から山に入って野いちごや、夏にはスモモ、秋は柿の実が熟れるのが待ち遠しくて、砂糖も塩もないから柿の実のよく熟したのを甘未料のかわりに使用したりしていました。
 馬木のような田舎でそうだったから、松江や出雲の都会の人たちは、それ以上につらい思いをされたことですね。もっぱら闇米(お米の流通が政府によって管理されていた時代に、ひそかに売買されたお米)に頼らないと命をつなぐことなど本当にできなかったのです。少し余談になりますが、たぶん東京だったと思いますけど、裁判所の判事さんが、周囲が心配するのを、裁判官たる者が法を犯すことなど出来ないと言われて、(配給のお米だけを食べて)餓死されたのは有名な話です。
 私の家にも何回か多少の縁故を頼って松江の方から、ご婦人が何人かで来られ、一晩泊まられて下着とかに針と糸で縦に縫って。今日の枕土のうのように薄く小さくして。それを夜なべにして米を縦に入れて、その上に着物を着て帯をして、朝に八川とか横田から木次線の汽車で帰るという、一寸思っただけでも大変な時代でしたね。リュックに入れたりしていたら、すぐ見つかって没収ですものね。

3.馬木尋常高等小学校から馬木村國民学校へ

 あの私は昭和11年生まれですけども、今の小学校というのはなくてね、昭和16年から法律が変わり、、国民学校ということになって、昭和16年から昭和21年までは国民学校。それで18年国民学校へ入学しまして、終戦を迎えて、それから大変な食糧難がおきて、えらいことになりましたねえ。食糧難はそういうことで。

4.とんでもないインフレ

 戦争が終わって、やれやれと思ったら、今度はあのー、大変なインフレが起こりましてねえ、とんでもないインフレになって、せっかく頑張って、お米をつくって、少しずつだけど、なけなしの金を銀行に預けとったけど、全然(銀行からお金を)さげられなくなってねえ、インフレで。まあ例えば、100万円の預金通帳が、1万円ぐらいしか価値がなんなって。それも勝手に引き出すことができなくなって、(「預金封鎖」という施策で自分の預金が払い戻してもらえない)大変な…。大人はもうその時も大変な思いをしましたし、食べもののない都会の人は、もっとえらかった。私らなんかの田舎の人は、家と食べ物はなんとかありました。米はね、贅沢しなきゃ。
 私は、この小馬木から外に出たことはないです。松江に3年おっただけで、あとね、私は体が弱くて、学校へ十分にいったりいかなかったりしたもんで、栄養失調になって、国民学校の3年生、ちょうど昭和20年にほとんど学校休んでいて、落第しまして。昔は落第というのは大きな恥ですけど、だから、健康が一番、大事だと、その時代から、思ってきましたもんで。80歳なんて、生きる予定というか、なかったですけどね、60まで生きたら最高だろうと、思ってました。それをまた遥かに越してしまいましたけど。

馬木の田んぼの様子

5.松江での高校生活

 私は島根農科大学付属農林高等学校(昭和26年~42年、現在はまた元の島根県立松江農林高等学校に戻っています)でした。
 乃木駅に降り立つと我が校だけがぽつんと際立って見えるほど、まだ乃木も田舎でしたね。国道9号線がまだ狭い土道で、幸町か栄町までがやっと舗装していましたから。戦後が少し残っている時代でした。高校は2年間寮生活で、最後の3年生1年間は浜乃木の旧競馬場の前の国道9号線沿いの民家の2階で隠岐出身の同級生と2人で下宿しました。米はまだ配給制で、近くの配給所へ切符を持って買いに行く、魚や野菜はもう自由に買うことができました。実家から1か月分の生活費や小遣いを送金してもらうと、最初はサバやイワシも何匹も2人でたいらげ豪快にやるうち、だんだん残金が底をつき、2人の財布を逆さまにして漬物と味噌汁だけで毎日をしのいだりして結構楽しい1年でした。青春の1ページでした。

6.お米をいかにたくさんつくるかが最大の目標だった

 戦後の10年間はお米の増産が日本の農村にとっては、最大の目標でした。60キロを一俵と、昔は60キロが一俵でしたが?今は30キロの紙袋で…。それが馬木で一番できたのは、昭和30年が大豊作。それまではほんとにね、病気が出たりしてなかなか..たくさん作ろうとして化学肥料をやったり、農薬がなかったりして、病気が出て、お米も増産できなくて..。
昭和30年に豊作でしたわ。馬木では、昭和30年に初めて1万俵(農協へ出荷された数量)出来ました。それから10年余りたち昭和42年には2万俵となりお祝いしましたね。
東京オリンピックのおかげで田舎もTVが普及し、その頃から都会の神武景気とか岩戸景気などのおこぼれにあずかりながら農家も少しずつ経済的に豊かになってきました。

お話しは、馬木地区のお寺、安養寺にて伺いました

7.就職:最初は給料は安かった。そこから右肩上がりに

 私は昭和31年に地元のまだ村でしたから馬木村農業協同組合へ就職したときの、月給が3600円だったんです。それで日曜日だけ休み、土曜日は半ドンでした。他の企業よりも、農協とか役場とかは安かった。
 小馬木にはね、清久鉱山株式会社の小馬木鉱山がありました。そこではモリブデンと言う鉱物を生産していました。地下300~400mから掘り出されていました。小馬木鉱山の従業員の賃金が仁多郡内ではいちばん給料が良いと言われて。まあまだここらでは、普通の企業では厚生年金なんかが無かった時代ですからね、厚生年金があって、しかも危険な仕事だから。賃金が良かった。
 製品のモリブデンだけを取り出して、金属会社へ持って行って。そういう作業がありますから、男性もあれば女性もおられる。近くの鉱山も60~70人くらい働いてましたね。出雲市の神西湖の差海というところの方から働きに来られた人があって、きちんとした社宅があって。とても地元の商業が潤ってた時代がありました。
 その当時はまだ、農村、町なんかも、非常に人口も多いし子どもも多いし、活力がありましたね。それはオイルショックが来るまでの話、オイルショックが来たのは昭和たぶん48年だったかな、48年のオイルショックまでは、ガソリン1Lが50円の時代でした。私はそれこそ50円/Lで走ってましたから車もね。オイルショックまでは。だからお米の値段は高くなったし、農村も結構そのころには良かったこの地域も。オイルショックが終わって50年、まだそれでもね、しばらく良かった、それからだんだん過疎化になりましたけど。
 農村の米は40年代までは増産をすればだんだん値上がりもするし、私らみたいな一般のサラリーマンもそれなりに毎年給料が上がって手当も頂いたりしてですね。農村も活力がありましたね。
 高度経済成長期ですから、昔の良い所と悪い所といろいろしながら時代が変わっていきましたけどね。「揺りかごから墓場まで」と言っていた縦社会から今日では逆戻りして横の絆を大切にしようとなりましたね。

8.カナクソを集めて

 私の家は米だけ作って、牛がいて、米と畜産と山と。
鉄穴流しをした後はうちらもみんな棚田になってます。規模が大小ありましてですね、みんな鉄穴流しをして、砂鉄を取る、磁石を持って川へ行くと、今でも砂鉄が付いて上がりますけんね。
 花崗岩の真砂土地帯にはやっぱり砂鉄はあったもんですね。日刀保のあそこでやってるケラを作ってるあそこ(鳥上の日刀保たたら)でなくて、(昔は)野だたらというのをやってて。野原の『野』のたたらですね。砂鉄を集めて焼いて。どこの集落にもそのカスがまだいっぱいありましてね、カナクソ(金くそ)があって、戦後の昭和30年代ぐらいに残ったカナクソを掘ってまた鳥上に(日立金属鳥上木炭銑工場に)ずいぶん持ってきた人がおられて(それを使ってもう一度鉄を作るため)。
 昔は(カナクソを)有料で引きとってくれた。いくらぐらいだったか?それは分からん。

「カナクソ」は奥出雲ではよく見かける

9.山脇さんの奥さんお手製のお漬物とおはぎをいただく。

同席された、安養寺の田中先生のお話し

 私の家内は山脇花子。そうですね、同級生でしたね。はい、馬木小学校で。家内は大馬木の奥ですね。金言寺というイチョウの有名なお寺。ご存じですか?そこの近く。

イチョウで有名な馬木のお寺、金言寺
山脇花子さんと島根大学生

 今ね、子どもがだんだん少なくなって、少子高齢化で年寄りばっかになるでしょ。うちの家内は10人兄弟です。それの5番目かな。昔はそうですこの辺もね。10人とかね、子どもさんが多いですよ。みなさんひとりとかふたりが多い時代だけどね、いちばん上と下が20歳くらい離れてる。お母さん代わりにね、いちばん下の子どもが弁当を入れてもらったとかね。下の子を子守しないけんだった。おんぶしてね。姉さんがね、面倒見て。
 私は4人兄弟で、もう真ん中がふたり亡くなりましたけど。下の妹をおぶって予防接種なんかね。お医者さんに行ったり帰ったり。注射なんかがあったりするとね。

同席された、安養寺の田中住職さんのお話し

10.鉄穴流しの跡は竹べらで掘る

 今の話で、野だたらをした後は、田んぼ作った時は、土を平らにしたって、鉄穴流しで良い泥はみんな流れてしまってますからね。平らにしても硬い土ばっかりで。うちの祖母なんかも竹のへらを持ってこうして苗を植えた言ってましたわ。新しく水田にしたところはね。土は砂鉄をとった後は斐伊川を下へ出てしまってますからね。それで山に良い土があるかって言ったらそうじゃなしに、残った土はね、表土の良いものはみんな流れてしまって。棚田にして作ってもそれは硬い土ばっかりだから。水外してすぐ乾いて硬くなるから。竹べらを持って、めくっては苗を植えてやって。竹べら?竹べらは地盤が硬いから、竹べらで掘るの。そんでそこへ植えてってことをやったっていうことを言ってましたね。だけん能率が上がらんですわね。たくさんならねえ、小さい山の田んぼなんかそうして作った言うてました、最初のころは。段々そのうち田んぼになってからは山の草を春刈って田植えまでに入れてやってね毎年それを。藁を入れてやったり、牛を飼ったたい肥を入れてやったらだんだんだんだん。良い土になってくれますけどね。何十年もかかって出来た棚田、根気と努力が必要ですね。

11.鉄穴流しの技術転用の話

 昭和15年くらいに小馬木の小学校のグラウンドをかんな流しの要領で、山を削って広くしたって聞いたことがある?昔はね、水を流すのに、スギの木のこんなやつを中をくって、つないで、それをずーっと..そうめん流しあるでしょ?あれの要領でスギの木の大きいやつを、うちの前の道路なんか、山に水をひいてきて、それをスギの木のくったところをつなぎ合わせて、流してね、かんな流しと同じ要領で道路つくったんです。重機なんかないだけん、全部人の手で、昔の人の知恵で。


~聞き書きを終えて~

 「戦時中の生活や、平成以前の生活のお話を聞ける機会は貴重でした。思い出も混ざった語りを聞かせていただくことで、歴史で学ぶようなこと以外にもその時の気持ちや情景が浮かぶようでした。県内でも地域によって慣習が異なり、興味深かったです。」(島根大学3年生:久保田玲奈さん)

聞き手の大学生、久保田れいなさん

「聞き書きに行った時は、予定していた時間より長くお話を聞かせていただいたのですが、それでももっと聞きたいと思うくらい面白いお話が盛りだくさんで楽しかったです。私が知っている現代の風習や暮らしとの違いに驚くことも多く、その違いが新鮮で、奥出雲での暮らしや風習にもっと興味が湧きました。また、地域を盛り上げるために様々なことをされていて、生まれ育った地域を大切に思われていることがとても素敵だと感じました。」(島根大学3年生:平かこさん)

聞き手の大学生、平かこさん


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