それでも、なぜ嫌いになれないのか。
遡ること今年の1月。お正月気分も抜けない最中に、クエンティン・タランティーノ監督『レザボア・ドッグス』のデジタルリマスター版を観に、映画館を訪れた。
その少し前から公開されていたリマスター版のビジュアルにはハッとしていた。
真っ赤で鮮烈。当時のモノクロ写真の切り抜き、それに合わせたフォントやレイアウト、すべてが惚れ惚れするくらい格好いい。
それでも、「私は映画館には行かないよ」と後ろ向きな姿勢でいた。
というのも、『レザボア・ドッグス』は一度鑑賞して挫折しているからである。
平穏なロードムービーや、親子や友情系のドラマなど、見る映画にだいぶ偏りがあった何年も前のこと、たまには普段見ないジャンルにも手を出してみますかね、とおっかなびっくり手に取ったそれは、冒頭の有名な会話シーン、オマージュされ尽くされているオープニングに「あら、おしゃれ」と喜んでいたのも束の間、180度変わった次のシーンに唖然。
なぜか突然の睡魔に襲われ、目を開けた時にはジ・エンドを迎えていたという始末だったのだ。
タランティーノ監督の他の作品においても、やや、というか、かなり血なまぐさいものが多い。
暴力や痛々しい描写はなるべく観たくない私にとって、そういった描写を多く含む彼の作品に、なぜこんなにもファンがいるのか理解ができなかった。
しかし、もう一度観たら、その理由の片鱗を感じることができるのでは…?
そんな2度目のおっかなびっくりが、映画館に足を向かわせた理由である。
結論。やはり、暴力描写は好きになれなかった。
でも、「面白くなかったか?」「嫌いか?」と聞かれると、首を縦に振れない自分がいた。
その1。
暴力描写を凌駕する魅力が、そこかしこに散りばめられているからである。
特に意味を成さない淡々とした会話は、カフェで隣の人たちの会話を盗み聞いているかのよう。
鬼気迫るシーンで踊り出す登場人物には、唖然を通り越して、笑いすら生まれてしまう。
登場人物みんなの個性が爆発していて、一人ひとりのクセや振る舞いを追っているだけであっという間に時間が過ぎていく。
その2。
構成が潔い。
ストーリー自体は非常に単純で、あるミッションのために集められた面々がミッションを実行するだけであるが、時系列で進まない構成のため、結果的にミステリーのようなスリルが生まれている。
その3。
音楽のセンス、使い方が抜群に良い。
ミュージックビデオのようなオープニングに限ったことではない。鬼気迫るシーンにダンスナンバーをかけてしまうギャップ、ラジオ番組のパーソナリティの曲振りと共に始まる場面転換、実際に登場人物がラジオを操作するとバックでかかる曲が終わるなど、タイミングが絶妙なのである。
映画によっては、暴力シーンのショックや陰湿さが、観終わった後にじっとりと残るものもある。
それらに比べても血なまぐさいにも関わらず、観終わった後に脳裏に浮かぶのは、登場人物たちの表情やコミカルな仕草、ストーリーの本筋には何ら影響がない会話だったりする。後味がすこぶる軽く、明るいのだ。
劇場を出た後、おっかなびっくり、パンフレットを買ってしまった。
赤い背景にぎっしりと書かれた熱量の高い文章、
見開きのページに横たわる、血みどろの登場人物たち。
ショッキングで血なまぐさいのに、嫌いになれないんだよなぁ。
そんな風に言っている私は、きっと、タランティーノ氏の思うつぼ、
劇中のMr.ブラウンのごとく、にやにやとほくそ笑まれていることだろう。
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