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Reflections on The Uses of Argument『論述の技法』省察録(6)

第6回 Introduction (1)


さて、『論述の技法』イントロダクションはつぎのようなギリシャ語の引用から始まる。

Πρώτον είπεΐν περί τί καί τίνος έστίν ή σκέφις, οτι. περί άπόδειξιν καί επιστήμης αποδεικτικής"
Aristotle, Prior Analytics,
24a10.

これはアリストテレスのPrior Analyticsからの引用である。アリストテレスのギリシャ語の原典は整理をされていて番号が振られている。24a10という番号で、原典のどこを示しているかがわかるので、研究者はアリストテレスの原典を論じているときはこの番号をかならず併記する。今回は下記の本を使った。

ギリシャ語と英訳が併記されているLoeb 古典ライブラリーの一冊である。アリストテレスのギリシャ語の文章は基本的に彼の講義を文章にしたものと言われていて、厳密に書かれておらず、後生の学者がその時代その時代の考え方で翻訳をしてきたと言われている。かならずオリジナルのテキストに戻れる番号がふってあるので、どのような解釈をするかが大切な研究となる。

トゥールミンが『論述の技法』を書いたのは1958年で、トゥールミンに影響を受けたわけではないが、それ以降哲学の領域ではアリストテレスの研究が大きく進み、英語で研究が行われている。研究者は独自の解釈で翻訳をしたり、注釈をつけくわえて研究を行っている。これが古典の研究スタイルだ。

トゥールミンも最初にPrior Analyticsの冒頭をギリシャ語で呈示していると言うことは、ここに彼独自の解釈を加えていくことをもくろんでいるわけである。

さて、議論を進める前に、1970年代以降かなり進んだアリストテレスのPrior Analytics研究の流れを説明しておきたい。このあたり日本の研究者では酒井 健太朗さんが『アリストテレスの知識論──『分析論後書』の統一的解釈の試み』を出しているが、Prior Analyticsの解釈が主題ではない。ここで考えてみたいのは、なぜトゥールミンはPrior Analytics 冒頭をギリシャ語で呈示して、それを解釈しようとしているのか、である。

トゥールミンの考えを紹介する前に、トゥールミンの本から三〇年以上たって翻訳されたPrior Analyticsについて紹介しておきたい。

これはHackett Publishing Companyの出版で、この会社はアリストテレスの英訳の定訳を提供しようとしている。この志をもつ出版社は多いが、そのひとつで比較的評判が良い。アメリカの研究者が中心だ。少しこの本の前書きをまとめておこう。

西洋の哲学の歴史において、論理学はアリストテレスの『Prior Analytics』以前には存在しない。突然登場したのである。長いあいだ、アリストテレスの論理学(あるいは、アリストテレスの論理学といわれているもの)は論理学そのものだった。一方、今日ではアリストテレスの論理学はそれほど重要視されていないとも言える。形式論理学は、極めて高度な技術的水準に達し、その基礎となる概念に関する哲学的な議論も、相応に進展した。『Prior Analytics』は現代の哲学を考える時にそれほど重要だとされてこなかった。

しかし、これを翻訳して注釈をつけて1989年に出版したRobin Smithはそう思わないと言う。アリストテレスのギリシャ語は、しばしば切れ切れで、難解で、ぎこちなく、曖昧である。そこで、今までの翻訳者は曖昧さを解消し、乱れた構文を整理し、省略されている(あるいは欠落している)部分を補い、ぎこちない部分を滑らかにしていた。

このような翻訳が適切である場合もあるが、Smithはこのやりかたが良いとは思っていないという。ギリシャ語を知らない哲学的知識のある読者に、アリストテレスの『先行分析学』を研究するための手段を提供しようとしたという。実はギリシャ語の翻訳ではなくて、ギリシャ語にもどらなくてもアリストテレス研究を行うための翻訳をつくるという流れがここ40年ほど起こっている。

これは、実はとても大事な事である。45年ほど前に慶應の大学院の修士課程に入学をしたときに、社会科学人文科学を学ぶのだから、やはりギリシャ語やラテン語は学ばなくてはいけないのでは、と思った。古典語を学ばないで著名な英文学の評論家になった人が、古典語をSFC(慶應大学湘南藤沢キャンパス)の必修にしろと声高にいったことが30年前にあったが、まあ無い物ねだりというか、そんな古典語に対するコンプレックスがどこか西洋の学問をする人にはあり、自分はろくに古典語がよめなくても、次の世代には古典語を、などと思うわけである。

当時の筆者の先生の1人が著名な言語学者の鈴木孝夫さんで、じゃあ藤井君に聞きに行こう、ということになった。で、藤井昇さんにお会いした。wikipediaに簡単な紹介のある、洒脱な先生で、君は何に興味があるの、ということで大分お話をした。そして「だったら古典語を勉強しないで、英語で読みなさい。最近とてもよい翻訳もあるし研究もある。古典文学をテキストとして学びたいのでなければそれでいいです」とおっしゃったので、以後、アリストテレスは英語で読んでいる。40年以上読んでいる。

少し前に、イギリスのジョンソン前首相がギリシャ語で詩をそらんじていて、すごい(すごいことはすごいが)とか、こうした教養があるからちゃんと政治ができる(それにくらべて我が宰相はとか)あるけれど、筆者はギリシャ語と政治は関係ないと思う。ただ詩を古典語で暗唱しているだけだ。ちなみにジョンソンはチャーチルの再来と言われる。しかし、チャーチルは名門の高校にいくが、落第に次ぐ落第。とくに古典語がまるでだめで、先生はあきらめて、英訳を読んで、それでレポートを出すという課題を出した。何度も文章を写しては書き、書き直すという作業を繰り返しているうちに英語で文章が書けるようになり、どうにかお情けで卒業したと、自伝に書いてある。で、チャーチルはノーベル文学賞をとっている。古典語はできないけど。

ヨーロッパの高等教育で古典語がそれほど重要視されなくなったのは古典語を教えていたらいま必要な教育をする時間がなくなるからである。結果、必要に迫られて古典哲学を勉強しようにもギリシャ語できない、みたいな状態になった。そこでいままでの適当な英訳や古典語テキストの横にそえられた英語のざっくりとした訳ではアリストテレス哲学は教えられないし、といってギリシャ語を勉強している研究者にだけ教えてすむ話ではない、ということで、英語でギリシャ哲学ができる水準の翻訳を作成するというプロジェクトが始まり、1970年代の半ば過ぎには大体そろってきた。これが藤井さんが、英語でいいのでは、とおっしゃった背景である。よく読まれているリーダー(論文集)としてAckrillの A New Aristotle Readerがある。



この前書きで、Ackrillは

「この論文集はあらゆるレベルの哲学を学びたい人たちと彼らを教える先生たちが、アリストテレス哲学をしっかりと学ぶことができるように、現代英語でありながら正確な英語で翻訳をしたものである」

と述べている。つまり、このまえのアリストテレスの英訳は結構適当だった、ということでもある。ギリシャ語ができない(Greekless)の人でもギリシャ語ができる人と遜色のない研究ができるテキストだ、とAckrillは強調する。アリストテレスをこのような立場から研究をすることを推し進めてきたのがオックスフォード大学である。そのようなレベルにアメリカの研究者達が作成しているHackett版のアリストテレスの翻訳も挑戦している。Greeklessの筆者でも現在たっぷりギリシャ哲学を学ぶことができたのはこうした翻訳のおかげである。

さて、ギリシャ語をまったく知らない哲学者にアリストテレスを英語でよんでもらうにはどうすればいいのか。Smithは翻訳は Lynn E Rose のAristotleʼs Syllogistic(1968)にだいたい従ったという。かわりに註を充実させた。

註は包括的な解説ではなく、論理学や哲学の知識は豊富だが、ギリシャ語ができない読者への補助としてつけられているという。実際に真剣な研究に使える『Prior Analytics』を提供するためにつけたという。そのため、テキストの何が問題なのかを明らかにし、可能な限り読者の邪魔にならないように註をつけたという。ある箇所をめぐる文法的・本文的な問題について長い議論をすることもある。ギリシャ語を知らない人にも理解できるようにと意図した著作としては文法を細かく論じることは奇妙に思われるかもしれない。しかし、そのような読者のためにこそ、これらの点について十分な議論が必要だと、Smithは書く。Smithが行ったのは訳語が選ばれるようになるまでの複雑な、傾向的な道筋を再構築することだという。

まさにそのとおりであり、本『省察録』ではこのような議論を続けていく予定である。なぜargumentが論述と訳されるかなどの議論はここにある。訳語をあてはめるのではなく、訳語が選ばれる過程でトゥールミンの思想のエッセンスをつかんでいくのだ。

さて、Smithの目論見はPrior AnalyticsをPosterior Analyticsと組み合わせて論じることにある。そのために彼が取ったのはアリストテレスの分析をみるための枠組みとしてアリストテレスの演繹体系を数学的論理学のスタイルでモデル化した。これは将来は古風に見えるかもしれない。だが、ここから出発するための出発点を提供するものである、とSmithは述べる。そして丁寧なイントロダクションを書いている。

(続く)

まとめ:
現代のアリストテレス研究はギリシャ語にもどらなくても研究が出来るように工夫された英語翻訳で行うことが出来る。それは翻訳する「枠組み」を明確にして訳文を提供するからである。Smithはそれを数理的な論理学の枠組みで行った。








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