見出し画像

Reflections on The Uses of Argument『論述の技法』省察録(5)

第5回 Preface to the First Edition


 
 さて、1958年にトゥールミンが『論述の技法』を書いたときの序文を読んでみよう。
 
The intentions of this book are radical, but the arguments in it are largely unoriginal. I have borrowed many lines of thought from colleagues and adapted them to my own purposes: just how many will be apparent from the references given at the end. Yet I think that hitherto the point on which these lines of argument converge has not been properly recognized or stated; for by following them out consistently one is led (if I am not mistaken) to reject as confused a conception of ‘deductive inference' which many recent philosophers have accepted without hesitation as impeccable. The only originality in the book lies in my attempt to show how one is led to that conclusion. If the attack on ‘deductive inference’ fails, what remains is a miscellany of applications of other people’s ideas to logical topics and concepts.
 
 
本書の意図は急進的であるが、その主張はほとんど私が考えたものではない。私は、同僚から多くの考え方を拝借し、それを私自身の目的に適合させた。その数は、巻末の参考文献を読めば明らかであろう。というのも、これらの論点を一貫して追っていくと、最近の哲学者の多くが、絶対的なものとして躊躇なく受け入れている「演繹的推論」の概念を、(私の誤解でなければ)混乱したものとして否定することになるからである。この本の唯一のオリジナリティは、どのようにしてそのような結論に至るのかを示そうとするところにある。「演繹的推論」に対する攻撃が失敗すれば、残るのは、論理的なトピックや概念に対する他人のアイデアの雑多な寄せ集めである。
 
 
Apart from the references to published work given in passing or listed at the end of the book, I am conscious of a general debt to Professor John Wisdom: his lectures at Cambridge in 1946-7 first drew my attention to the problem of ‘trans-type inference’, and the central thesis of my fifth essay was argued in far greater detail in his Gifford Lectures at Aberdeen, which were delivered some seven years ago but are still, to our loss, unpublished. I am aware also of particular help, derived mainly through conversations, from Mr P. Alexander, Professor K. E. M. Baier, Mr D. G. Brown, Dr W. D. Falk, Associate Professor D. A. T. Gasking, Mr P. Herbst, Professor Gilbert Ryle, and Professor D. Taylor. In some cases they have expostulated with me in vain, and I alone am answerable for the results, but they deserve the credit for any good ideas which I have here appropriated and used.
 
 
1946年から7年にかけてケンブリッジで行われたウィズダム教授の講義で、私は初めて「トランス・タイプ推論」の問題に目を向けた。また、P. Alexander氏、K. E. M. Baier教授、D. G. Brown氏、W. D. Falk博士、D. A. T. Gasking准教授、P. Herbst氏、Gilbert Ryle教授、D. Taylor教授には主に会話を通じて特に助けられたと認識している。しかし、私がここに引用し、使用した優れたアイデアについては、彼らの功績に値する。
 

解題:


さて、問題は trans-type inference である。一体これは何だ?早速The Stanford Encyclopedia of Philosophy で検索をしたが、出てこない。
 
ワラントは推論の種類なので、文章のなかでは明示的にでてこない。どのように動いているのかはクオリファイヤーで表現されるちょっとした言葉で確認することが出来る。
 
ワラントのことをトゥールミンはトランスタイプ推論と呼んでいる。アムステルダム大学のフランズ・ラン・エメレンの改訂版『論述の技法』の序文にあるところの 法律の分野での論述で用いられている有効性基準(validity)の分野依存性(field-dependent)の判断をおこなうときの推論である。
 
このあたり、なかなか解説している論文がないのだが、
Toulmin’s Rhetorical Logic: What’s the Warrant for Warrants?
William Keith and David Beard
Philosophy and Rhetoric · January 2008
がこの問題をよく分析している。KeithとBeardはこの論文で詳細にトゥールミンのワラントを理解していないトゥールミン型論述の教科書が多いか、を細かく批判していく。本連載はトゥールミンの『論述の技法』を正確に読むことが目的なので、この論文は随所参考にするが、ここでは深くは紹介しない。無料でダウンロードできるので、手元においておくと今後の議論をおいかけていくときに、便利である。
 
https://www.academia.edu/2812506/Toulmins_Rhetorical_Logic_Whats_the_Warrant_for_Warrants
 
さて、KeithとBeardの上記の論文をまとめながら省察をすすめていきたい。『論述の技法』において、トゥールミンは通常の演繹的推論に代わるものとして、論述の手続き的説明を主張している。すべての議論が演繹的推論に還元できるわけではないと述べているのだ。彼は学術論文で一般に認められている物質的証拠を示すことで主張の正しさを論述する方法や演繹的推論の形式的条件がととのっていることで主張が正しいとする論述の方法に疑問を呈して、こうしたやり方に変わる推論を提案して、それをワラントと呼んだ。ワラントは条件文のような抽象的なものではなく、制度的・学問的な制約つまり文脈上の境界線に縛られていると主張したのである。「ワラントは、根拠から主張への旅が制度的・学問的制約の中にある」とのべた。

トゥールミンはこの本を出版することで、アリストテレスに始まる古典的な論理学の伝統と決裂する。有効な三段論法では推論者は結論を演繹的に「引き出す」。これに対して、トゥールミンの論述では、ワラントとが条件付きに、結論をだすことを許可する。法律における「令状 ワラント」という用語の一般的な使用法は、家宅捜索令状が家宅捜索の許可であるという説明である。この考え方をつかってトゥールミンは古典論理学に挑戦した。

トゥールミンの『論述の技法』は論述と論理学を分けようという提案である。トゥールミンがこの本を書いたときには論理学の主流は一階述語論理(FOPC)であった。だが、トゥールミンは一階述語論理を批判する代わりにアリストテレスの三段論法(syllogism)に着目し批判している。トゥールミンの提唱する手続き概念はイギリスの歴史のなかで確立してきたイギリスのコモンローの伝統に則って運営される法廷のやり方にしっかりと根ざしている。トゥールミンは、1950年代のイギリスの経験哲学の多様性を踏まえてトゥールミンは新しい論述の方法を提案した。

彼は合理性 rationalityへのコミットメントと論理 logic へのコミットメントは別であると主張する。トゥールミンは自分自身を合理主義哲学者と主張している。(ただし、rationalityを合理主義と訳す問題はある。rational とは根拠をもって説得的な主張あるいは要望を行うという意味があり、論理学的に筋が通っているという意味ではない。英国系の法律学におけるratio decidendi の意味であり、これはwikitionaryによると、 The legal principle or rationale on which a judicial decision is based. とされる。ざくっと訳すと「司法判断の根拠となる法的原則またはrationaleである。でrationaleはこれまた我々は馴染みのない言葉である。マネージメントの文章で、あなたにはこれを依頼します。そのrationaleはという感じで現在も頻繁に使われる。だが論述の展開においては非常に重要な概念である。これについてはいずれ口述するが、このrationaleを考えるのもrationalityの仕事である。)なのでrational主義者トゥールミンは論理の研究はrationalityの研究と等価ではないが、論述の研究はrationalityの研究にとって不可欠と述べる。この言葉をどのように訳していくのかは課題である。しばらくは合理性という訳語は使わない。rationalityという英語を使っていく。

さて、『論述の技法』を書いたトゥールミンの意図をしっかりと読みこんでいくのだが、作文・コミュニケーション関係のトゥールミンメソッドをつかった大半の書籍では『論述の技法』でつかわれる「ワラント」の概念を誤読している。基本的に「ワラントが何をするのか」と「ワラントとは何か」をきちんと理解していない。ワラントを正しく理解すれば、このような問題を避けることが出来る。トゥールミン自身の哲学の中でワラントが果たす役割を解き明かす必要がある。これが本省察録の目的である。
 
さて、こうしてみると、1958年の『論述の技法』の前書きはなかなか味がある。こまかく見ていこう。
 
The intentions of this book are radical, but the arguments in it are largely unoriginal.
 
つまり、いままでのイギリス経験論の哲学者が考えてきたことをまとめて、思い切った主張をこの本でおこないたい、というわけだ。
 
I have borrowed many lines of thought from colleagues and adapted them to my own purposes: just how many will be apparent from the references given at the end.
 
多くの本を参照している。巻末の文献リストを見て欲しい、と述べる。文献リストを見て見ると、最初にギルバート・ライルへの謝辞がある。日常言語学派であり身体的認知論の切っ掛けをつくり、大変な哲学者である。彼の重要性はこれからもますます増していくだろうとされている。オースティン、カルナップ、ストローソンの名前もある。こうしたイギリス経験論の20世紀の大物の研究を自在に活用して彼の論述の理論は作られていく。確かにここを読むだけで議論の方向性が解ってくる。
 
Yet I think that hitherto the point on which these lines of argument converge has not been properly recognized or stated; for by following them out consistently one is led (if I am not mistaken) to reject as confused a conception of ‘deductive inference' which many recent philosophers have accepted without hesitation as impeccable.
 
こうしたすばらしい研究があるのに論述研究が上手く展開しないで、演繹的推論が登場してしまうと言うのが現在の論述研究の現状だ、とのべていく。躊躇も批判もなく「演繹的推論」を受け入れている。それは間違いだと指摘したのがこの本だというわけだ。そしてこの本の価値は、と続く。
 
The only originality in the book lies in my attempt to show how one is led to that conclusion. If the attack on ‘deductive inference’ fails, what remains is a miscellany of applications of other people’s ideas to logical topics and concepts.
 
いろいろな研究を参照しながら論述を展開する本書に独創性があるとしたら、それは演繹的推論には意味がない、ということを主張していることだ、と述べる。
 
そして、参照した研究や研究者のリストを並べる。
 
Apart from the references to published work given in passing or listed at the end of the book,
 
まず、文末の文献リストで、ライルやストローソンなど大物の哲学者の名前に言及して、彼らの仕事をもとに演繹的推論を葬り、あたらしい推論であるワラントを導入するとのべ、多くの大物哲学者の名前をあげ、かれらに謝辞をする。そして演繹的推論に変えてトランスタイプ推論を紹介したい、と書く。
 
I am conscious of a general debt to Professor John Wisdom: his lectures at Cambridge in 1946-7 first drew my attention to the problem of ‘trans-type inference’, and the central thesis of my fifth essay was argued in far greater detail in his Gifford Lectures at Aberdeen, which were delivered some seven years ago but are still, to our loss, unpublished. I am aware also of particular help, derived mainly through conversations, from Mr P. Alexander, Professor K. E. M. Baier, Mr D. G. Brown, Dr W. D. Falk, Associate Professor D. A. T. Gasking, Mr P. Herbst, Professor Gilbert Ryle, and Professor D. Taylor. In some cases they have expostulated with me in vain, and I alone am answerable for the results, but they deserve the credit for any good ideas which I have here appropriated and used.
 
なかなか自信をもって世の中に挑戦する勢いがある序文である。
 
そして、彼の哲学への挑戦は空振りにおわり、『論述の技法』によって文章論の大家となり、アカデミズムにおける論文執筆法の第一人者となっていったのである。だが、哲学への挑戦は未完に終わる。
 
その結果、彼の『論述の技法』を哲学書として丁寧に読む人がいなくなり、かれのトランスタイプ推論もワラントも正しく理解されないまま現在に至るのである。本連載は、じっくりとこの本を読みながら、『論述の技法』をレイアウト論述として作文術に貢献する面だけではなく、ワラント推論の発見者として認識論に大きな貢献をしたトゥールミンの本を1頁ずつ全部読む、というチャレンジである。次回からは第1頁 イントロダクション を読んでいきたい。

まとめ:


1:『論述の技法』は哲学者が安易に当然としている演繹的推論だけが正しい推論とする考え方は間違いである、と述べる。
2:哲学者は演繹の他にrationalityについての研究も行うべきだ。
3:『論述の技法』ではこの主張を既に行われてきたイギリス経験論的哲学的研究を根拠として論述する。

となる。

この出発点のポジションをとらないと、トゥールミンの『論述の技法』の理解と活用を十分に学ぶことは出来ないだろう。


 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?