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メタバース 徹底して解るまで その11

次回からメタバースの定義に向かっていくが、そのまえにいまここで我々が置かれている状態を説明してみたい。

メタバース研究をまとめ続けているが、「メタバースは忍耐強く勉強しないと分からないので頑張ろう」という趣旨の記事がワシントンポスト、ニューヨークタイムズ、ウォールストリートジャーナルあたりにちらほらでてきている。哲学的にも技術的にも難しい問題をもっているが、なによりも25年くらい前に登場したお間抜け経済理論ニューエコノミーの繰り返しじゃないか、という議論が動き始めた。もう忘れたと思うがSONYの社長が一ツ橋の経済学者と一緒にぶち上げたやつだ。リーマンショックでぶっ飛んだ経済理論だが、これによってアマゾン、グーグル、Facebook, など巨大IT企業がうまれた。当時、IT革新によりビジネスの取引コストが低下 し、新規の参入障壁が低下し、その結果競争 が厳しくなり、それに打ち勝つためには各企業 は大幅なコスト削減、生産性の向上を目指さね ばならならなくなっていた。IT革新のネットワーク 効果、限界コストの低下から各企業の戦略として「収穫逓増」という経済を実現することが重要と、とされた。それを担うのがライシュのいう「シンボリックアナリスト」だ。 いまそこらへんでおこなわれているメタバースビジネス論とかマーケティング論を話している感じの人たちね。ペラッペラの言葉で話すパフォーマー。恥ずかしい。でも20年前もいっぱいいた。だが、結局は分散化して自由になった経済活動が、巨大資本と巨大システムで統合され、そこでの利益拡大の活動を支援する大幅なコ スト削減、労働生産性の伸びなやみ、が続いている。さて、これをどう打開するのか?メタバースという技術環境をどのように活用してここを乗り切るか。収穫逓増みたいなインチキ広告に(記事、講演会、書籍)にだまされるな、20年前の失敗を繰り返すな、というわけだ。ライシュたちは悔い改めたと言っているが、日本の当時の経済学者経営学者もその末裔も、ちゃんと考えた方がいい。メタバースで「収穫逓増」はおきない。利益拡大もおきない。しかし、すくなくともインターネットが巨大なシステムになって現在の状況を生み出した動きをとめて、もとに戻すことはできる。だがそれには理論とビジョンが必要で、忍耐深く学ばないとわからないことなのだ。あすからSDGsなんて無理。そこにむかって辛抱強くいくしかない。高層ビルをたててビジネスを拡大なんて無理。丁寧に街作りをしなくてはいけない。「辛抱」が大事なのです。辛抱して理解することが大切なのです。これがBallのメタバース論のメッセージです。

前に書いたが、大学の一般教養の経済学は40年くらいまえには基本ミクロもマクロもケインズ的な枠組みが強くて、サミュエルソンの経済学、ちょっと進んでジョーン・ロビンソンの厚生経済学が中心だった。普通の需要と供給の平衡状態の計算と政府による支出のメカニズムが説明された。お金持ちから税金をとって経済的に低い状態にあるひとに再分配をする。この仕組みがイギリス経済を衰退させて英国病を生んだ、といわれはじめ、サッチャー政権が大きく政策をかえていった。アメリカでフリードマンがここを理論化した。要するに稼いだやつから稼げなくなったやつへの所得の再分配をやめる、ということだった。で、僕がアメリカに留学した頃には素晴らしかったアメリカの医療が10年くらいかけて崩壊していった。このときシカゴ大学でフリードマンの同僚だった宇沢弘文は激怒して、『自動車の社会的費用』とかをかいた。この経済政策のときに使われたのがハイエクであり、リバタリアニズム的な考え方とされる。たしかにアメリカのpositivismと言われるアイン・ランドの小説と思想を好む人たちは、自由に経済活動をして稼げないやつはほうっておく、という考え方をする。収穫遁増という間抜け理論が1990年代に登場して、金持ちは稼いだ金を政府に吸い上げられることなく、金持ちになっていった。で、社会はボロボロになった。


日本では小泉政権の時に大きく舵をきって、アメリカのフリードマン系の経済学者でも手をつけられなかった、大企業の雇用の責任を免除して、「労働流動性」を増加させるという禁じ手を実行して、非正規雇用が大量に生まれた。なぜこの政策を採用したのかよくわからないが、そうなって人材派遣会社天国になっった。
こうした社会を組み替えることが出来るのがリバタリアニズムなのだが、フリードマンの経済理論とのイデオロギー的な区別が明確につかないで、混乱したままである。現状の「リバタリアニズム」のイメージとブロックチェーンが可能にするリバタリアニズムは違っている。が多くのブロックチェーンのエンジニア達はフリードマン的なリバタリアニズムか、アイン・ランドのposotivism的なリバタリアニズムを哲学的武器として思考してコードを書いている。だが、技術としてのブロックチェーンはオープンソースでフリーという流動性と、信用の連鎖という不変性を共存させる興味深い技術で、これをふまえた新しいリバタリアニズムが求められている。技術的に言うと分散型台帳とp2p認証である。これは暗号貨幣だけではなく社会の様々な分野で応用可能なものなのだ。組織を否定するが組織を運営する、この矛盾する特性、透明性と匿名性、を生かした技術を支える哲学の構築がいま非常に求められている。言ってみれば、ニューリバタリアニズムである。このあたりこれからしばらくよく考えて、新しいメタバース設計に向かっていきたいと考えている。
あしたからBall のメタバースはこの議論に入っていく。ちょっと前振りをしておきました。

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