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the taste of tea 8 器うつわ

珍しい器に対する物欲は、部屋の埃、心の汚れである。

一箪食 一瓢飲(論語より・わずかばかりの飲食物)を持って、


足りる楽しみを知らずに、境遇に満足することの本質を忘れて、


一を得れば、二を願い、三の器を五に働かす、その工夫を忘れて、いたずらに、他人の宝をすべてうらやむ。

このままでは、茶はかえって、心身のわずらいになってしまう。


まして、器ものの新古、価値の大小は、この道を楽しむ人の論じることではない

豊富秀吉邸の溜まり場に集まった、諸大名が茶器の品評をしておられた。


通りかかった利休は、その話しにとても興ざめして


「大名ともあろうという方のお話しであろうか、

価値の軽重を話し合うのは、商人の習慣でございます。茶器の鑑賞は、寸法(かね)であって価格(かね)ではございません」と


戒めたと言う。

この一言は、実に器ものを選ぶときの拠り所である。


自らの身の程に応じて、手にならした、器を、清々しく扱う時、茶の真実の味がこもる。値段の高い器のことで、苦労をし、命を縮めるようでは、真の茶味を客にすすめることはむずしいだろう。

高価な器ものを愛し、高いものを安く買いたいなどと思うのは心が、利益を貪る心に迷うがゆえである。

志が高い人の喜ぶようなことではない。

価値を論じられるような器ものが家にあっては、それは不吉な器にもなりかねない。それは真に愛すべき器とは言えない。真に価値のある器とは、例えば、父母の手の触れたあとの残っているような、その人にとって、二つはない器のことである。

なので、誰かに貴いものでも、違う誰かに貴いとは限らない。


利休は、万代屋宗安(もずやそうあん・安土桃山時代の茶人・利休の娘婿)と一緒に侘人(悲しみに沈んでさびしく暮らす人)を訪ねた。


露地の中垣に、釣った古い狐戸(狐窓の建具)をみて、宗安は「侘びて、面白い」と言う。利休はこの戸を求めて、遠い山寺あたりから、やってくるかもしれない。その労力や、費用などを思い計ってみると、見た目は侘びに見えるけれど、本当の侘びではないなあ」と言った。

実に、姿は侘びでも侘びにならないものがあるのだ。

此は器ものを良いと思い選ぶ時ににもっとも大切な気持ちである。


器ものの第一定義は、「間に合う」と言うことである。

それに、分相応の趣きを加えるために、工夫し、変化して、多種多様となるまで出会って、本来の目的は用を●するためにある。

食器で言えば、第一に形が整っていなければならない。第二に清浄でなければならない。しかし、新しいものを求めることは、心のままにならないので、有り合わせのものを使うことになる。「扱い」の上で、形の不足を補い、この清浄(清い)趣きを出すように、手前(作法)が工夫されている。

ただし、茶を点てる時には、どうしても新しくしなければならないものがある。

茶筅(ちゃせん)と茶巾(ちゃきん)とである。たとえ、茶碗は古びていても、はたまた、かけていても、雪のように白い茶巾で、ふき清めて、竹の色の鮮やかな茶筅で、茶を点てる時、見ている人の心にうつる清々しさは、格別である。

古びた茶碗を風趣あるものに変える、手腕は、実に「扱い」のあるのだ。

有り合わせのも物を扱うと言うことから、「見立て」と言うことが出てくる。

それは器ものの活用である。「卑しい器ものの中から、良器を、採りあげて、使うのは人材活用と似ていることだ」と不昧公(松平不昧公・大名茶人として名高い松平家7代藩主)が言っている。井戸からくみ上げた、釣瓶桶(つるべおけ)の清々しさを見て、縄を解いて、そのまま席に運び入れて、その清涼を褒め称えたと言う話しから、「釣瓶置き」という扱い方が決められて、さらにその形を模した「水指」までができた。そ子で、釣瓶は夏の器となっていた。しかしながら、宗旦が、ある冬の朝に

井戸側に置いた、釣瓶桶に薄い氷が張っている趣きがどうにも面白いと感じ、見て見ぬふりができなかったので、そのまま、席に運び入れて柄杓(ひしゃく)でその薄い氷を割って、客へのお楽しみとしてみた。それからは釣瓶は、冬でも使われるようになった。つまり釣瓶は形には意味はなくて、折々の主人の感じを客に伝えるための手段にしか

過ぎないのだ。これが「見立て」である。

もちろん「見立て」は安分知足(自分の境遇に満足し足ることを知る)を基本としている。

曲物(まげもの)の「建水(けんすい)」も、竹の引き切り蓋置き(ふたおき)も、この例にもれない、


小堀遠州(近江小室藩主で江戸初期の大名茶人)も


器ものに対する本当の意義として

「道具はさほど、よくすべきではない。珍しい名物だとしても、昔は新しい物だったわけで、


ただ、その家に長く伝わってきた道具こそが、名物だ。


古いと言っても形が良くないものは使わず、新しいと言っても形の良いものを、捨ててはいけない。


数が多く持ってることを羨んではいけない。


少ないものを大切にし、一つの道具であっても、何度でももてはやしてこそ、子孫に伝わる道もあるのだ。」


と言っている。

翫物喪失」(珍しいものに心を奪われ、それをもてあそんでいると、大切な志を失ってしまうということ)と言う、昔の人の戒めを忘れてはいけない。


老人雑話(雑誌)に


「利休の子供の道安の茶会で五、六年ほど続いている会があるが、


鶴の一声と言う花入に花を生けて、終わりにじゃ一度も掛物をかけたことがない。


今時、道具をたくさん連ねて、華美を争うことは、心入れがまるで違う」と書いてある。


器ものは常に同じでもこれを扱う道安の心は「日々新」(日々新しい)と働いていたに違いない。


この見立てをさらによく考えると

形、大きさとの二つの方面がある。その人の好みから形が決まり、その人の身体から大きさが決まる。この二つから「好み」と言うものが出る。「好み」と言う以上、形の上では、●想の美しさを、第一とし、大きさの上では、扱いの便利さを忘れてはいけない。。


人によって扱う道具を決めると論じられているが、今日、能率増進(作業効率を高める)ということが唱えられて、人によって道具を変えようと論じられているが、


これに利休は「身にかなう器」ということを常に言っている。

結局、利休好みは、利休の趣味と、利休にとっての基準サイズであり、この寸法に違ってはいけないと言う茶道の法則ではない。


勢田掃部(鎌倉時代の治水家)

利休の、柄杓(ひしゃく)の短さを見て感じ入り、帰宅の後、柄杓の長さを縮めて

利休にみせたが「あなたのような長身の方においては短い柄杓は誠に見苦しく思います」といましめられた。勢田掃部には本人の基準サイズがあり 利休には利休の基準サイズがある。


ある高貴な方が茶を点てることを好み、


利休の流れを組んで

利休の持っているものといえば、どんなものでも買い求め、

床には利休の像を飾って

朝夕、これに仕えていた。


一日つくづくとその姿を眺めながら、

それほどまでに畏敬の理を尽くしているので

せめて夢の中でもいいので茶の極意を伝えていただけないかなぁと祈った。

その夜の夢に、利休は、絵から抜け出して「高いご身分のあなたが私のようなものに朝夕敬っていただく事は大変うれしくは思いますが、愚かさの至りとわかって下さいませ。あなたの身の心を高くしてその身の程に従い、やるべきことを務めていれば、あなたが手でならした器は人々に千年先までも伝わり、大切に扱ってくださいますよ。これを「我より古いにしえをなす」(自分が先例となって新しい物事や規範を作っていく)と言う気概といいます。私のような卑しい者の持っている器に大金を投じたりするようではこのわずかなる道もも、もてなくなってしまいますよと告げたと言う話がある。


面白い風刺である。


形の上で誰でも気がつくのは茶入れ 香炉などにうつされた自然物である。


茶入れでは、「茄子」を第一の形とし。文・琳_柿・橘・瓜・柚子・棗・瓢箪などがある。


鶴首●●に至ってはだいぶ好妙に流れていて、太鼓・車軸から、達磨・餓鬼、好妙になりすぎている。


釜にも富士・形・鶴首・姥口があり、その●付にしても、松・笠・茄子・竹節・鬼面・龍頭などの好みがある。


香炉は鼎を本来の形としているが、好みによって、鴨、獅子などの姿になる。


火を入れるものとしては残忍である。


こうして器ものは奇妙なもので、その第一目的を失っている。


真の茶杓は、象牙作りであったが、竹をも使ってから節のない茶杓が工夫され


さらに竹の特質を表す節が利用され、今日一般に用いるような竹の茶杓となった。


茶碗は、天目形が一番点てやすい。

しかし涼しげなのは平茶碗で、茶の冷めないのは筒茶碗である。


夏は平茶碗、冬は筒茶碗と使い習わしではあるが、天目型の変形であると考えてみれば、冬だから夏だからと、使用上の誤りを大きな罪でも犯したように咎める事は無い。


形を変化し発達させた上には次第に軽くなるのが習いである。


●子の天井板と四本柱とを取り去ったものが「長板」である。

その長板を半分にしたものが「大板」で、さらにこれを九寸四方に縮小したのが「小板」である。


それとともに、真の黒塗りが、色塗りになり、木目となって、また瓦となっている。


後から小板にうつるこの変化は


おごそかな茶式が、次第に省略していき、草庵の「わび茶」となった順序を考えさせられる。


このような見立ての変化は、すべて安分知足によるが、こうしなければならないと言うよりは

結局「災いを転じて福とした人々の働きによるところが大きい」


象牙で彫り上げた茶入れの蓋に、思わぬゆるみが出てきたので利休はこれをほっておいて扱った。


これを見て古田織部は同じようなゆるみを作らせて、利休を招きそのゆるみを客づけにして扱って見せた。


利休は織部の才能を褒めたと伝えられているけれど、


この二つの扱いに、二人の茶事の特質が偲ばれている。

織部の才能は茶道を汚す好奇の流れにさおをおろしている。


「大風炉」に「小板」、「小板」に「大板」と言うように


配合の対象によって、器ものはさらに風情を増す。


しかしこの配合には、その主となるものを先に決めなければならない。


有楽公(織田 長益・茶人)に、今日の花入れはどれにいたしましょうか」と家臣が訪ねたとき


有楽公は花を見なければ、花入れは決まるわけは無いと答えられた。これに気づかぬと花入れが主となり、花が第二になることがある。



器物の置き方、また飾り方の第一は安定である。

畳の上では不便にならないように、床や棚の上では危なげのないように置かなければならない。


床では器ものが前に出ていても、飾るという上から、深みが出てかえって良いが

棚の上では奥深く置くのが安定でもあり、見る人にも不安な思いを起こさせない。


形のよく見えるようにと考えたり、釣り合いの良いようにと気をつけたり、長いものが小さいものを見切らぬように心付けたり、

長くてもひづみを入れて短く見せたりすることなどによって飾り方にも「真・行・草」(様式や空間の価値概念を表す理念の言葉)の列がある。こうなると面白い代わりに置き物の性質もよく考えなければならない。


結局、物塵のわずらいが伴うので、草庵(※)では飾る余地のないように工夫されている。


しかし普通のお茶ではこういう飾りを学ぶために飾り棚がある。


これに対して便利と言うことから工夫された「道幸」とか「吊棚」とかいうものがもある。


これらも棚の一種ではあるが、飾りと言うよりは整頓が重きをなしている。

この棚さえものぞいてしまえば、いらない品物で心を動かすことがなくなって


ただ真に必要な道具の置き方だけが問題となる。

「運び出し平手前」の工夫はここにある。


お茶の初歩として習う、「運び出し平出前」は初歩であって同時に奥義である。


配合と便利さから茶器の場所が定まり

習熟してみればなるほどここより外外に置くところがないと頷かされる。


また運び揃える少しの間でも

・前飾り・後飾りと整然として置き方が工夫されている。

その隙がわずかであるほど、山の端に架かる三日月のように、物欲の汚れのがかかる間もなく、運び去られるのもまた嬉しい気持ちがする。


器ものは、主人の「心持ち」を見せる手段であり、方便に過ぎないと言うことに、目が行けば珍奇を揃えるよりは


ありあわせで手前を誠にすることが尊いと言うまでもない。


手前の真は心の真である。茶碗を清め、ちりをすすぎ、ぬくめ湯と言う、二度の捨て湯を汲むのを基本とする。


熱湯のために茶碗が傷つけられないようにと思う、その心を組み込むことをちりすすぎの要として、十分に茶碗を温めて

ちょうどよいものをお勧めしようと思う心を組み入れることをぬくめの要とする。



こういう思いが全ての扱いにもこもる時、客の心に映る姿は良き手前である。



客としてはこういう心入れを察するのが大切で、そうでもないものをひねくり回して

感心したような顔をする必要は無い。



本阿弥光悦が「宝の器は破損する時不快の念を自ら陥り、簡単に手に入る粗末な器を扱うこそが心は軽い」と言っている。

「本当に風流は欲がなく執着してない世界の中に在り、真の趣きは自然の状態の中にある」と言うことである。




「●慮清浄の一身を持って器とす」これは茶道で最上の器である。

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