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【小説】ホースキャッチ2−2

里紗はクラブハウスに入り、汚れてもいい服に着替え、鏡に写る久しぶりに化粧をした自分の顔を見ながら、髪を縛った。

「じゃあ前みたいに今日も馬房の掃除から始めようか。馬はまたキャナルがいいかな」

 里紗は少し緊張した様子でキャナルの馬房の扉を開けて無口を付けようとした。前回は容易く付けられたはずの無口がなかなか付けられなかった。馬は頭を前後に振ったり、横に向けたり、歯を出して小馬鹿にした表情を見せた。

 その様子を見ていた瑛太が、「こら、キャナル!」と大きな声を出すと、馬は静かになり、観念した様子を見せた。

「馬は相手の顔の表情や動きから気持ちを察するから」と瑛太は微笑した。

 里紗は馬房掃除をしながら、ゆっくり心を整えた。それから洗い場に行きキャナルにブラシをかけた。たてがみ、お腹、背中と撫でるようにブラシをかけていると、馬は耳を横に広げて大きな目をとろんとさせた。

「里紗ちゃん、今日は馬に乗る前に引き馬をやってみようか。引き馬はなかなか奥が深いんだ」

「引き馬?」里紗はキョトンとした顔を見せた。

「うん。引き馬」瑛太はニコッと笑った。

 牧場には縦六十メートル横二十メートルの長方形の馬場とその他に直径十五メートルほどの丸い馬場が二つある。二人は長方形の馬場を半分に区切ったスペースに向かった。

 瑛太がまず引き馬の見本を見せた。馬場に入り、瑛太はキャナルを連れてゆっくりと歩いた。キャナルも瑛太のすぐ右横を同じ速度でついて歩いた。瑛太は綱を持っていたが、それを引っ張ることはなかった。彼が止まると、馬も彼の横でぴたっと止まった。瑛太がまた歩き出すと、馬も歩き出した。彼が止まると、馬も止まった。馬は瑛太の影法師のように右横をずっとついて歩いた。こんなことを何回か繰り返しながら半周ほど歩いた。ずっと引き綱はだらんと緩んだままだった。

 次に瑛太は先ほどより歩幅を広げて早足で歩き出した。するとキャナルも歩幅を広げて歩き出した。彼がそのまま少しずつ速度を上げていくと、手綱は変わらずだらんと緩んでいたが、馬は彼のすぐ右横を同じ速度で伸びやかに歩いた。瑛太と馬の踏み出す足の動きと足音が見事にシンクロしていた。瑛太がまた歩く速度を緩めると、馬も速度を緩めて、最後は二人同時に止まった。瑛太は馬の肩回りをぽんぽんと叩いて愛撫した。里紗は不思議そうに瑛太と馬のやり取りを見ていた。

「次は里紗ちゃんやってみよう。引き馬で大切なことは、綱でぐいぐい引っ張るんじゃなくて、里紗ちゃんの歩くペースに合わせて馬が自然に歩いてくれることなんだ」

 瑛太は引き綱を里紗に渡して「馬の内側を歩くように左側に立って、右手でこう綱を持って、綱の余りを左手でこう持って、もし馬が暴れたら綱は離していいから」と教えた。

里紗は見よう見まねで引き馬をやってみた。

「さぁ行くよ、キャナル」

里紗は軽くキャナルを撫でてから歩き出した。馬はピクリとも動かない。

「最初はちょっと馬を引っ張ってもいいよ」瑛太は馬場の外から声をかけた。彼女は少し馬を引っ張ってみた。それでもキャナルは動かない。キャナルを見て、動いてと声を掛ける。

「馬の方はなるべく見ないほうがいい。馬を見ると止まれの合図になっちゃうから進む方向を向いて。馬は真横にいても里紗ちゃんのことを見ているから。歩くぞって意志を強く持って、動作を大げさに表現してみて」

 里紗は少しだけ綱を引っ張り、さぁ行くよ!と気合いを入れて、大きく太腿をあげて力強く歩いた。キャナルはゆっくりと歩き出した。「よし!」と里紗が思うのもつかの間、数メートル歩くと馬は里紗よりもすたすたと早く歩き出し、馬場の内側へと入っていき、勝手に止まってしまった。それから馬は好き勝手に動き始めて、また勝手に止まった。しまいには外ラチ(馬場の外側の柵)の隙間から顔を出して雑草を食べ始めた。里紗は馬の首を綱でぐいっと持ち上げようとするも、草を食べている馬の力は強くびくともしない。「あぁ馬の力ってすごいな」と里紗はくじけそうになる。

「馬が勝手に動いたら、ダメだって教えるように綱を一回だけぐっと引っ張ってもいいよ「。里紗ちゃんが不安になると馬も不安になるし、緊張すれば馬も緊張する。自信を持てば、馬も自信を持ってこの人に付いて行って良いんだって思うから」 

 瑛太はあれこれとアドバイスをして、里紗は瑛太の言う通りに辛抱強く続けた。里紗は手をぎゅっと握り、行くよ!という意志を全身で表す。彼女の目つきが真剣になり、汗ばんだ表情には活気が出始める。キャナルは耳をぴくぴくと動かし里紗の方へ意識を向け始めて、右横を同じペースで歩き出した。里紗の引く綱が徐々に緩んできた。彼女が止まるとキャナルも止まった。キャナルが彼女よりも前に出ることもなくなった。彼女の身体から力みが消えてきた。動作を大きく見せなくても、大きな馬体が里紗の踏み出す小さな足の動きに合わせて歩いてついてくるようになった。彼女が力を抜けば抜くほど馬の動きは伸びやかになってきた。

「よくなってきているよ。いい感じ。馬も緊張がとけて、背中がしなやかに動いている。綱で引っ張らなくてもついてきている。よし、今度は少し歩く速度をあげてみよう」

 里紗は歩く速度を上げた。馬も歩幅を広げて彼女の横を歩いた。さらに早く歩いた。それでも馬はついてきた。歩いては、止まる。それを数分続けた。

「いい感じだね。今日はこの辺で終わりにしようか」と瑛太は言って、里紗から馬を預かった。

「お疲れさま。疲れたよね。ちょっと休もう」

「こんなに本格的に身体を動かしたのは数ヶ月ぶり。緊張して余計に力が入っちゃって疲れた」 

 彼女はぐったりとした様子だったが、顔つきは爽やかだった。

「里紗さん、筋がいいじゃないか。後半は馬がきちんと君に意識を向けていたね」

 いつの間にか里紗の様子を見ていた教授が声をかけた。教授はカウボーイハットがすっかり気に入っているようで、今日もそれを被って現れた。

「教授、名前を覚えていてくれたんですね。初めて引き馬をやってみました。とても難しかったけど、楽しかったです」

「実はそこからずっと見ていたんだ。初めてにしてはとても上出来だったね」

「ありがとうございます」

「引き馬はね、とても奥が深いよね」

「本当にそう思いました」

「引き馬は、極端な言い方をすると、綱を引っ張ったり、何かの合図で動かすんじゃないんだ。君の意志で動かすんだ。君が動くと思ったら馬が動くんだ。馬と君が綱でつながっている時、馬は君の身体だ。君の心が動けと思えば身体は動くだろう。馬が動かないとすれば君の心と身体が繋がっていないってことだ。馬という身体とも、君自身の身体とも」と教授は真面目な口調で言った。

「馬が動いてくれないというのは、つまり私の心と私の身体がきちんと繋がっていないってことなんですね」

 里紗は少し顔をこわばらせた。

「残念だけどその可能性もあると思う。でも今の僕らは皆そんなものかもしれない。日常の中でも前に進もうと思ってもなかなか進めないこともあるし、むしろ後ろに行ってしまったりすることもあるしね。心はこっちに行くべきと言っているのに、どうしても心の声を聞くことができない。身体は動かず、途方にくれてしまう。心と体が分離しているみたいなやつだ。それに気づかないことも多いし、気づいたとしても、そういうことは日常ではなかなか治らないし、治し方も分からない。だからそこに馬と関わりを持つ事の意味があると僕は思っている。君の心が馬という身体ときちんと繋がることができれば、君自身の身体も君自身の心と繋がり直すことができる。さらに身体の正しい動作によって、心を正しく整えることもできる。私の仮説によるとね」

「『馬は、自分の鏡だ』って前に言っていたのはそういうことですね」

「そう。理解が早いね。もし興味が持てるなら、馬と関わるのをしばらく続けてみると良いよ」と言って、教授はクラブハウスに向かって歩いていった。

『確かに私の心と身体はきちんと繋がっていなかったのかもしれない。自分がうつになるなんて思ってもいなかったし、それからというものすっかり自分への自信がなくなってしまった。自分の意志だと思っていたものは一体何だったのだろう。自分の情熱も覚悟も矜持も、どこに行ってしまったのだろう』

 どんなにたくましく見えるものも、大地と正しく接続していない限り、あっけなく消し飛んでしまう。人の心も身体も脆くはかない。だから綱が緩んでないか、切れそうになっていないか、お互いに点検し合わなくてはならない。お互いが震える瞬間を見逃さないように感度を鈍らせてはならない。

 休憩しながら里紗は教授の言っていたことを何と無く反芻していた。

「里紗ちゃん、ちょっとだけ乗馬もやる? 疲れちゃったかな」

「うん。少しだけやろうかな」

 里紗は瑛太のサポートを受けながら馬に乗った。馬に乗るのは初めてじゃないのに、馬の背中に跨った時の自分の視線の高さになぜか改めて驚いた。こんなに世界が違く見えたんだっけ。こんなちょっとのことで世界って変わるものなんだっけ。どういうわけか呆気にとられた。彼女は引き馬だけで思ったより体力を消耗してしまっていたので、十分ほどで乗馬を終えた。

 乗馬を終え、里紗は馬を洗い場へ連れて行き、馬装を解除した。馬の背中が汗で湿ってほんのり湯気が出ていた。「私が下手だから疲れさせちゃったね。ごめんね」と彼女は呟きながら、馬に水をあげて、それからタオルで大きな背中を拭いた。

 片付けを終えて、里紗は馬場のすぐ外にあるベンチに腰掛けた。クラブハウスから心配そうに里紗の様子を見ていた陸人が麦茶を持って近づいてきた。

「ほい、麦茶」

「ありがとう」

 冷たい麦茶が緊張して固くなっていた身体の隅々まで染み渡るようでやっと全身が緩んだ。

「いつでもまた来ていいからな。里紗からはお金も取らないから」

「そうなの? それはダメだよ。瑛太も時間使ってやってくれているんだから」

「いやいいんだよ。里紗には借りがあるからな。これが里紗のためになるんだったらそれでいいんだ。良かったらまた来てよ」

「ありがとう」里紗は少し声をつまらせた。


 その夜、瑛太は里紗にメールを送った。牧場で里紗と馬が一緒に歩いている写真を添付した。 

「里紗ちゃんも馬も表情がとてもよかった! 来てくれてありがとう」

「こちらこそありがとう。また行ってもいいかな?」

 里紗は短い文章をすぐに打ち終えた。しかし彼女の親指は画面の上で少し震えて止まったままだった。一、二回ゆっくり深呼吸をして、それから彼女は送信ボタンを押した。

2−3へ続く。
https://note.com/okubotsuyoshi/n/n4c6f66d194db

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