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【小説】ホースキャッチ2−6

その日家に帰ると里紗は二週間ほどベッドから起き上がることが出来なかった。心の奥底に張ったはずの結界が解かれた。様々な感情や情念が噴出した。どこにも向けられない怒り、顫えるような悲しみや苦しみ、痺れるような疼きといったものが、涙とともに堰を切ったように溢れ出てきた。『これまでの私の人生は一体何だったのだろう。私は私の欲しいものを分かっていなかった』

 里紗はこれらの溢れ出てくるものに、逃げることなく向き合った。向き合い、ただ感じて、感じ抜いた。時間とは不思議なもので、逃げていては止まったままなのに、向き合うことで流れていく。時間は決して解決しない。忘れた気にさせるだけで、目を背けている限り、いつまでもその場所でひっそりと渦巻いている。向き合うことで彼女の痛みは日を追うごとにドライアイスのようにゆらゆらと溶けていった。無害なものへと、妙な安心と陶酔を伴う空虚感へと変わっていった。荒涼とした景色がゆっくりと青い空と土だけの穏やかな景色へと変わっていった。空に顔を出した曙光は暖かった。

 この頃、里紗は家にいるときは絵を描いて過ごした。彼女は大人になってからずっと描いていなかったし、小さい頃に絵が好きで良く描いていたこともすっかり忘れているほどだった。なぜ今になって描きたいという衝動が生まれているのか、自分の中から湧き出るものが何を意味しているのか、よく分からないまま、描かずにはいられなかった。溢れ出てくる感情のエネルギーを受け止めて積極的なものに昇華させるには何かしらの表現という手段が必要だった。里紗の痛みは完全に消えた訳ではなかったが、彼女はそれを受け入れることができつつあった。

 最初、里紗の描く絵は色々な色彩を塗りたくった落書きのようなものばかりだったが、気付くといつの間にか、彼女はある一つのものを何度も描くようになっていた。

 それは丸い物体に人がひとり俯き加減で座っている、そんな描写だった。自分でも何を描いているのか分からなかったが、描くたびにその絵は少しずつ具体的になっていった。丸い物体は地球のようで、そこに座るのは視力を失い目に包帯を巻いている少女で、手には壊れた竪琴を持っている。その竪琴に少女は俯きながら耳を傾けているといった絵だった。

 それは里紗が幼い頃にとある絵画展で母といっしょに見た絵で、ジョージ・フレデリック・ワッツという画家の「希望」と題された絵だった。里紗はその時二歳か三歳くらいだったので記憶にあるはずもないのだが、なぜかその絵を真似て描いていた。

 ある日、母は里紗が縁側に座りその絵を描いているのを見ていた。母はどこかで見覚えのある絵だと思いながら、なかなか思い出せずにいたのだが、数日経ってふとあれは昔自分が見て感動した絵だと思い出した。

「里紗は小さい頃、絵を描くのが大好きだったものね。その絵を知っているの? ママもどこかで見たことあるわ」

「私も覚えているような、覚えていないような朧げなんだけど、なぜかこの絵が頭に浮かんできて、ただ描いているんだよね。なぜだろう」

「そうだ。その絵画展に里紗も一緒に連れて行ったのよ。でもまだ本当に小さい頃だったから覚えているはずないよねぇ。不思議ね。あの頃はどこに行くにもあなたを連れて行ったのよね。おばあちゃんが近くにいたじゃない。だからいつでも面倒見てくれるって言っていたんだけど、可愛くて預けていけなかったのよね。あなたママっ子だったし」

「そんな時もあったんだ。私にはママはいつも忙しくて家にいなかった記憶しかないよ」

「そうねぇ。里紗が小学校に入った頃からママ仕事でばたばただったからね。ごめんね。あまりかまってあげられなくて。むしろ加奈や彰のことで里紗に頼ってばかりで負担かけちゃったものね」 

 母は目に涙を浮かべた。

「私ね、しっかりした子だね、さすがお姉ちゃんね、ってママに褒められて嬉しかったの。ママも喜んでくれていたから、それが嫌にもならなかったの。でも本当はね」

 里紗も目に涙を浮かべて言葉に詰まった。

「本当は、そんなことしなくても、愛してるよ、ってはっきり言ってあげれば良かったんだよね。あなたはすごく頼りになる子だったから私甘えちゃったのね。里紗ごめんね」

母はそっと里紗の肩を抱き寄せた。

「愛しているのよ。昔からずっと」


 里紗はその後も自分の意志ではない何かに突き動かされるかのように、牧場に通った。最初は週一日くらいの頻度が、徐々に二日、三日と増えていった。

 牧場に行った日は、引き馬や調馬索をするだけじゃなくて、教授のアドバイスに従って、できる限り牧場の暮らしに身を委ねた。瑛太に教わりながら、馬房の掃除、餌やり、馬体の手入れ、と馬の日常の世話をした。できる範囲で、馬の体調チェックもした。馬の胸に聴診器を当て、心臓の音を聞き、脈拍数を測った。馬のお尻に体温計をさして体温を測った。油断すると馬に蹴られたり、体温計がお尻の中に入ってしまうので、注意を払いながら行った。

 鞍や頭絡などの馬具の手入れ、ゼッケンの洗濯などの雑用にも精力的にこなした。スタッフの昼ご飯作り当番にも加わり、皆でお昼ご飯を食べた。

 畑の仕事も手伝った。牧場の畑では馬のボロを藁や籾殻と一緒に自然堆積させたものを肥料として使っている。野菜を植える前にそれらを土に混ぜて、よく耕し、二週間ほど寝かせると、ふかふかとした通気性や保水性に富んだ土壌になる。そうして出来た畑にはすでにジャガイモ、人参、ナスなどが植えてあって、綺麗に畝が並んでいる。里紗はその畝の周りの草むしりをしたり、瑛太と一緒に空いているスペースにトマトやピーマンの苗を植えたりした。畝の間には雑草に混じり香ばしい香りを放つパクチーが植わっていて、それは虫除けのためにもあると習ったので、里紗は間違えて抜かないように気をつけながら草むしりをした。

 教授も牧場に来た時には里紗と一緒に馬の世話や畑仕事をした。

「ボロを使ったり、パクチーを使ったり、この牧場のこういうところがいいよねぇ」

 教授は草むしりをしながらにんまりと微笑んだ。

「ほんとそうですね。あと厩舎のクモの巣も!」

 里紗は爽やかな笑顔で厩舎のほうを指差して言った。

「うん。クモは大概害は無いし、勝手に虫を捕まえてくれるからね」

「昔ながらの暮らしの知恵なんですかね。バランス感覚が絶妙というか、すごいですよね」

「そうだね。今はなんでも虫は駆除、菌は除菌抗菌、と目指せ無害無菌社会みたいな風潮だけど、行き過ぎると何でもマイナスの影響があるよね」

「こういう土の中にもたくさんの微生物がいて、人の心身に良い影響を与えるものもあるんですものね。土に触れたり、動物に触れたりするのが良いと言われるのは、そういう理由もあるんでしょうね」

 里紗は手のひらで少し黒褐色の土を掬って、まじまじと見つめた。

「それもあるだろうね。今は微生物の研究が進んでいて色んなことが分かってきているよね。土の中にも、僕らの身体の中にも、何億、何兆もの微生物がいて、もちろん害を及ぼすものもいるけど、地球の循環にも、僕らの健康にも、欠かせないものがたくさんいる。常在菌とか共生微生物とか言われるけど、色んな微生物が僕らの周りを行き来しながら、身体の中にも棲みついていて、それらが身体の一部のような機能を果たしていて、それで僕らは生きているとも言えるんだよね」

「共生の関係というか、人の身体も地球みたいなひとつの生態系のようなものなのでしょうね。どこからどこまでが本当の自分なのか、境界が曖昧になりますね」

「人が作る境界線ってのはいつもいい加減だからねぇ」

 里紗はうんと頷いて、ゆっくりと手のひらを地面に向けた。掬った土がぱらぱらとこぼれ落ちていった。

 奥の森では木々がみずみずしい葉を揺らし、梢に隠れた鳥たちは甲高く囀っていた。藪の中ではじーじーと虫たちが鳴いていた。空を見上げると白い雲がゆっくりとたなびいていた。大地と空の間のうごめくものたちは、気脈を通じ合わせたかのように響き合って、一つの美しい旋律を即興で奏でていた。全てはひと続きなんだ、そんな感覚を里紗は抱いた。

2-7へ続く。
https://note.com/okubotsuyoshi/n/na559b270737b

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