許すことが愛であるとは、理想論でもあり現実でもある
『人を愛したところでロクなことがない』と言っていた独身の友達に、「ロクなことがなくても許せるのが愛」と答えたら、『それは理想論だ』と言われた。
おそらく、彼は恋愛関係においてトラブルが起こったから出た発言だろう。
独身の男性が感じた『それは理想論』というものと、子育てをしている男性(ぼく)が感じることはそもそも立場が違うので感じ方が当然違う。
ぼくは、起業しはじめた主婦の方の相談に乗ることがよくある。すると、ビジネス界隈で発信力のあるキングコング西野さんや多動力で有名なホリエモンこと堀江貴文さんとかの発言を見て、あんなに行動力なくて…と落ち込んでいる様子によく出くわす。
立場がそもそも違うので、子供がいて面倒を見ている人と独身男性では物理的な制限や自由度がそもそも違う。これはどんなに理屈を述べたとて物理的に絶対的な制約が出る。
だから、彼らができないことができたり、彼らにできることができなかったり、感じることも違う。
だから、彼とぼくが同じ感じ方ができるとは全く思っていないし、おそらく恋愛で傷ついている状態だと推測されるので、ぼくが言ったことが理解できなくても当然だなと感じる。
そして、ぼくが彼の立場で『ロクなことがなくても許せるのが愛』という発言を見たら十中八九理想論だと言うだろうし、ぼくみたいな気持ちが全くわからないような発言をしてくる奴がいたら全力で噛み付くと思う。
しかし、ぼく自身、夫婦生活がもうすぐ8年目に入る。子育てもあと数ヶ月で7年目に入ろうとしている。そうこうしていると、独身の頃には理解できなかったこともいくらか理解できるようになった。
彼にマウントを取ろうという気は1000%ないといえば嘘になるけどほぼない。
その上で、ぼくが感じる愛とはなんなのか?ということを話してみようと思う。
恋とは期待と所有欲である
立場の違いから意見をぶつけ合ってもラチがあかない。サッカーマニアと野球マニアがこっちを好きになれと言い合うようなものでしかなくなる。
なので、もう少し誰でもわかる定義をつくってみるとわかりやすくなる。
そもそも人はなぜ人間関係で落ち込むのか?
とくに恋愛で落ち込む時のケースは、自分の過去を振り返ると、浮気される、振られる、ものを盗られる、約束が守られない、嫌なことを言われた、などいろいろあるけど、共通しているのは『裏切られた』という感情が生まれた時だった。
なぜ裏切られたと感じるのか?
それは相手に〇〇であるという期待があるからだ。相手は〇〇モリモリしてくれるはず。きっとマルマルモリモリしないはず。愛菜ちゃんはずと少女のままでいてくれるはず!みたいな期待があるんだ。
その期待とは違う行為をされた時に裏切られた!と悲しみを感じる。
繰り返すけど、裏切られたという感情は、期待があるから起こる。
恋愛ではなんの期待をしているのか?
相手は自分以外の相手を好きになったり、おせっせしないだろうとかそういう期待。自分は隠し事をされないはずという期待。
なぜそんな期待が生まれるのか?
一言で言えば所有欲だと思うし、7年前に坂爪圭吾氏の話を読んだ時にすごく腑に落ちた。
浮気や不倫が問題視されるのは、自分が恋人なりパートナーを「自分の所有物」だと思い込んでいるからこそ覚える怒りや嫉妬が原因なのだと私は思う。自分の所有物だと思うからこそ、勝手なことをされる(自分の意に沿わないことをされる)と怒りや嫉妬の感情を覚えてしまう。
【不倫肯定論】所有は人間の自由を剥奪する。ー 「その人を使って自分を幸せにしたい」のか「自分を使ってその人を幸せにしたい」のか。 | いばや通信
その頃は自分自身がよく嫉妬をしていた時期だった。しかし、所有欲か。確かに。と思った。
パートナーは自分の所有物ではない。そんなことは誰でも分かっていると思うけど、心のどこかでは『自分のもの』という気持ちが芽生えていることが往々にしてある。
夫婦関係を7年やり、子育てを6年やって感じる愛とは許し
夫婦喧嘩がある夫婦もあればない夫婦もある。うちはしょっちゅうしている。この間も激しい衝突をした。子供も大抵の夫婦喧嘩には慣れるもので、ヤバそうな時にはやばそうな空気を察して子供が親をなだめようとしてくる。どちらが大人なのかまるでわからない。
ぼくは嫁に対して結構失礼なことをするし、悪いなと思うこともよくする。しかし、嫁はそれをなんだかんだ怒ったりしながらも最後には許す。ぼく自身も嫁に酷いことをされたり酷いことを言われたりしながらも最後には許す。
ロクでもない一日なんてものも定期的に起こる。その度になぜ自分は生きているんだろうか…とすら思う。
慣れないカーシェアで車を運転し、嫁は機嫌が悪い日で予定していたことが予定通りに行かずに怒りが爆発し、後ろの座席では車酔いした子供が何度もゲロゲロしている。しまいには、コンビニで車止めた時にもう一人の子供がドアを思いっきり開けて隣のトラックにぶつけたりなんてことが起こる。
まあ、いろいろと生きていれば起こる。
子供もロクなことをしない。子育て民ならこの一言で、わかりみが深いと頷くだろう。しかし、それも全部許すのだ。
さっきの坂爪氏のブログのタイトルにもなっているように、「その人を使って自分を幸せしたい」のか。「自分を使ってその人を幸せにしたい」のか。
他人に対する愛とは相手に対して何かをすること、相手がすることを許すことであり、自分に何かをしてもらうことではない。
自分がどんなに何かをしても、それが受け入れられるのか?相手が喜ぶのか?そういうことは全く別の話だ。
自分がしたことに対してポジティブなリアクションが欲しいと思うのは、買ってきたお土産を喜んでもらえなくて怒っている奴や、余計に後処理が大変になる家事をやって手伝ってやったのになんで文句を言うんだと言っているのと同じだ。それは相手が喜んでくれるはずという期待をしているだけであり、相手を喜ばせることをして喜んでもらえたということを自分が感じたいだけなのだ。
嫁に言われた。「家事をどれだけ頑張ったかどうかは関係ない。結果が全て。」
そんな雑な家事を許された。そこにあるのは怒りの先の愛である。
愛が許しとは理想でもあり現実でもある。
愛が許すことなんてのは理想。そうなのだ。そう思って現実的には怒り狂ったり許せん!!と思うこともにちじょうちゃめしごとだ。そんな日常茶飯事だから、許すことが愛というのは理想であるのだけど、現実に起こっていることは自分がたくさん許されているということ。自分がやっている行いを数々許されてきている。許されずに存在している人なんていない。
働くことを許されている。お金をもらうことを許されている。一緒にいることを許されている。誰も見ていないだけで、ちょっとした悪いことを許されている。この世は許されていることだらけだ。そもそも自分自身が愛されて存在している。
つい自分がしたことばかりを振り返り、相手に対して怒りたくなる。そして、愛とは許しであるなんて理想だと言いたくなる。でも、自分がされてきたこともたくさんあり、許されてきたことがたくさんあり、愛がそこにはたくさんある。そのことをついつい忘れてしまいがちになる。
愛があるということは、そこに自然と感謝が生まれる。愛と感謝はセットだ。感謝ができない時には自分が受けてきた愛を忘れている。相手から感謝されないから愛がないという話ではない。自分が感謝できるかどうか。全ては自分から発信するもの。
〇〇だから相手を愛する。それは条件ありの契約。 許すことは理想でもあり、現実でもある。自分が許されているという紛れもない現実があるんだから。
おわり。
貢いで。貢げば貢ぐほどお互いに精神レベルアップするよ。貢がれるともっといいもの生み出せる。よろしくね。