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鏡界

 彼は鏡の中に生きる人だった。彼は他のどんな人より人を見てきた。人より多くを知り多くを失ってきた。
 彼は生れながらに鏡の中に居てそこを動くことは無かった。と言うよりむしろ動けなかった。そしてその世界でたった一つだけ動くものがあった。
 それは鏡であった。
 鏡は彼の周りを無数に浮遊しており、それぞれに個性を持っていた。
 彼が望めばその鏡が目の前に現れ向こう側を見ることができた。
 ただ向こうからこちらを伺い知ることは出来ない。
そうして彼は多くを見てきた。


 その鏡はどこか寂しさを放つようなそんな輝きを放つ鏡だった。気になった。すると次の瞬間にはもう目の前にあるので、いつもその瞬間(とき)だけは少し驚く。
只、そんな驚きは可愛いものだった。鏡の中にある光景に比べれば。
 人生の中で唯一にして一番の驚きだった。
あれほどの美しい曲線が人の身体をもって描き出されるのだとは彼は知らなかった。
 それはある種「恋」のようで、ただ彼はそれを呆然と眺める事しかできなかった。
 その女性はシャワーを浴びていた。
 彼女は体を斜めに、肩で風を切るみたいに傾けて、踵を少し浮かせシャワーヘッドに顔を向け目を閉じていた。
 長くしなやかな髪、何の凹凸もない首、まるで一筆で描いた曲線のごとくしなやかで鮮やかな背中、すらりと長くだれもが見とれる脚、連なった峰の淡い桃色をした頂上からは雪解け水のごとく清らかな水が流れ、次第にその先には漆黒の闇が広がり、あるいはより魅力的な深い谷底を這って流れて最後に全てが排水溝の中へと吸い込まれていった。
 嗚呼、一度でいいからあの水となって彼女の身体を流れてみたいものだ。
 あの美しい曲線を、彼女の身体を、この肌で触れてみたい。
 ただ彼のその夢はとうとうかなうことはなかった。そしてその彼にとっての至福のひと時は物の数分で終わってしまった。
 彼女は不意にこちらに目を向けた。目があった気がした。
「やあ、」
 声をかけても無駄なことはわかっていてもそうせずにはいられなかった。
しかし、彼女は彼の届かぬ思いに気づいたかのように鏡に向かって微笑んで見せたのである。
そして確実に彼と鏡の向こう側にいる彼女とは目が合った。少なくとも彼だけはそれを確信していた。

 鏡の中に生きる彼は眠ることはなかった。がしかし、その時たしかに彼は夢を見た。それは彼女を映す鏡が目の前から消えてしまったそのあと、幸せの余韻に浸ろうと不意に目を閉じた瞬間に訪れたのであった。
 彼女が目の前に現れこちらに微笑んでいる。彼は手を伸ばし彼女の手を掴もうとする。しかし、手を伸ばした先、彼女の手のあたりから突然波がたち、すると全体に波が広がり、すべてがいびつな形へと変化していった。まるで水面に移る姿のように揺れそして次第に消えていったのだった。