短編小説『生きるためにしなければならないこと』
武蔵は海を見ている。
日の出から随分時間が経った。陽が昇って頭上近くになろうとしているのに、その間じっと海面を見つめている。
光が交差して、宝石のように輝いて武蔵の顔に反射している。
それでも武蔵の表情は変わらない。目を見開いたまま海面を見つめている。
視線の先は、様々な曲面を描いて、絶えず揺れ動いている海面に向けられている。桟橋に腰をおろしたまま、用意されている小舟に乗ろうとしないのだ。
これから、巌流島に渡って佐々木小次郎との試合があるというのに。
幾度雲が通り過ぎ、風が流れ、群れを成した渡り鳥が行き交ったことだろうか。
船頭はすぐにも漕ぎ出そうとしていたのだが一向に乗り込まない武蔵を怪訝そうに見ていた。
しばらく待っても全くその気配を見せないので、しまいには諦めたのか舟を漕ぐ櫂(かい)を抱えて船尾で居眠りを始めた。
そよ風が吹き、海面を掃いて通り過ぎる。全てがゆっくり動いている。
しかし、武蔵だけは動かない。
ただ一点を見つめているだけである。
頬を通り過ごす風が鬢(びん)を震わせても、動かない。据え置かれた銅像のように、海を見ている。
彼は心を鎮めようとしていた。
武蔵の心は、嵐の中をすべもなく漂う小舟のように揺れ動いていたのだった。
今日は、いつもと違う。
嫌な予感がする。
胸騒ぎ。
野生の血から、沸き起こる本能の声。
佐々木小次郎の存在が、目の前に立ちはだかっている。
負けるかもしれない。
振り払っても、頭の中をよぎる。
無にならないと、分かっているのに無にならない。
ほとばしる肉体、弾ける精神、絞り出した血、大量に流した汗、それらは何も残らない。
今までの修行が全く意味のないものになってしまう。
その為にも、負ける訳にはいかない。負けるということは、死を意味する。
死によって、すべてが無に帰する。
しかし無にならなければ勝つことが出来ない。
負ければ無になる。
同じ「無」なのだが、無限の生と無になる死とは、まさに紙一重の存在だが、結果は大きく異なってしまう。
武蔵は生きるために無になろうとしていた。
心が無にならないと、勝つことが出来ない。
己の心が、目の前の海面のように、絶えず揺れ動いているのだ。
陽炎のように、揺らめいている。
心が研ぎ澄まされていれば、山間の湖の水面のように、微動だしないように見えるはずだ。
目の前の海面は無情にも揺れ動いている。
そよ風にも、惑わされている。いくら気を鎮めるようにしても、それは変わらない。
武蔵はひたすら待った。
心が鎮まる時を待った。
目の前の海面が、鏡のように見える時、どんなにそれが波立っていても、自分の理解の中で、掌握できる時、それが無になる時だ。
武蔵は、それを待っていた。
海面には、虫けらのような姿で、血を流しながら横たわる自分の姿が映し出される。
筵にくるまれて、この桟橋に戻ってくる姿が目に浮かぶ。
おのれが勝敗にこだわることで、心が偏り、落ち着かないのだ。
何も考えないことだ。
全てを受け入れることだ。
邪心があるから、心が動くのだ。
もう、後には戻れないのだ。全てを無にして、小次郎に向かうだけである。
なるようにしかならない。全て天命に従うしかない。
生に固執するから、無になれない。
無になれないということは、負ける。
それは死だ。死を覚悟することで無になれる。勝つことが出来る。
生きるために、死を受け入れよう。
ようやく武蔵は立ち上がった。
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