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短編小説『近鉄京都線 桃山御陵前駅』

妹の旦那に送ってもらって、新田辺駅から京都行の急行に乗り込む。

今日中に東京に戻らなければならない。

木津川の鉄橋から夕陽が見えた。

何年ぶりだろうか。

今まで空さえも見上げていなかったような気がする。

狭い空間に押し込められて、地べたを這いつくばるように生きてきた。

少しばかり有名だったIT関係の会社に勤めていたばかりに、いい気になって会社の仲間と独立して会社を作った。

一等地のビルにオフィスを構えて、眺めのいい高層マンションに住んだ。

CEOという肩書が私のエゴイズムを一層増長させた。

人生なんてちょろいものだと高をくくっていた。

マンションの上から、街の風景を見るように、すべてを見下していた。

最初は毎日が楽しかった。

自然と笑みがこぼれた。

しかし長くそれは続かなかった。

皮肉な笑顔しかできない自分に気が付いた時から、笑顔を作るのが苦痛に感じ、それ以来笑顔を作ること自体出来なくなった。

仲間が晩秋の木の葉のように次々と抜け落ちていった。

家族も気が付くと誰もいなくなっていた。

結局残ったのは自分一人だった。

いや、自分一人が取り残されたのだ。

おまけに一生かかっても返せない借金だけが残った。選択の余地がなく自己破産した。

時代の流れに乗っただけで、何の才能もない60を超えた男に、まともな仕事なんてない。

アルバイトに毛の生えたような仕事をかけ持ちで働いている。だから休日なんてものはない。

そんな時に、実家の近くに住む妹から電話がかかってきた。

「おかあちゃんが、大変やねん。倒れて救急車で青谷の病院に運ばれてんねん。すぐ帰って来て」

取るものもとりあえず、東京から病院に駆けつけると、母は息を引き取った後だった。

どこまでも神は味方してくれない。

慌ただしく、通夜、葬式を澄まして、あとは妹夫婦に託してきたのだった。

以前よりやつれた母親の死に顔を見た時、腹の底から悔しさがこみあげてきた。それはすぐに、胸の中心部から怒りに変わってきた。

自分自身に対する怒り。

自分が自分をなじっている。

一人暮らしの母親の死に目にも会えなかった。羽振りのいい頃に、父親はなくなった。結局、両親に親孝行らしいものは何もできなかった。

身勝手だったし、今は自分が生きてゆくことで精一杯なのだ。

もう実家に戻ることはないだろう。

気が付くと電車は、後から来る特急電車を先へ行かせるために大久保駅で止まっていた。

特急電車が追い越すときに、車体がガクンと揺れた。

「良平」

母親に呼ばれたような気がした。

発車のベルが鳴り、電車が走り出した。前は、自衛隊の中が見えなかったのに、今は良く見える。

そうか高架になったのか。

と思っている間もなく、幼い頃に住んでいた伊勢田駅を通り過ぎた。

その瞬間あの時の光景がよみがえった。55年前のあの時も今のような気持で、伊勢田駅を通り過ぎるのを見ていた。

小学校1年の時だった。

学校の健康診断で引っかかって耳鼻咽喉科に行くことになった。

当時、住んでいた伊勢田には医院がなかったので、大久保までひとり、電車で通っていた。

ある日、改札を通るともうすでに電車が止まっていた。

発車を告げるブザーが鳴っている。

急いで、飛び乗った。ドアが閉まった。いつもと何かが違う。

いつもの電車より人が多いからだろうか。いつもよりスピードが速い。

そう思う間に、伊勢田駅を通り過ぎてしまった。一瞬のことだった。

自分が降りなければならない駅なのに、駅が無造作に遠ざかってゆく。

すっかり見えなくなってしまってすぐに、通っている小倉小学校が見えた。

がらんとして人気のない校庭は、何か空々しい感じがした。

それさえも置き去りにして行く。

ついに小倉駅も通り過ぎてしまった。

そこから先は、行ったことがない。

未知の世界に連れ去られてしまう。

どうしよう。

「ボク、席が空いているから、座らはったら」

お母さんよりだいぶ年をとったおばさんが声をかけてきてくれた。

「僕、伊勢田駅で降りたかったんです。降りたいんです。助けてください」

でも声にならない。

声を出すと大声で泣きだしそうになる。こらえて下を向いた。

乗っている人がみんな僕の方を見ているような気がした。

これ以上、やさしい言葉をかけられると「帰りたい、帰りたい」と泣き叫んでしまう。

視線を避けるように外の景色を眺めた。田んぼが広がっていた。

田んぼしかなかった。

地平線の向こうまでそれは続いていた。黄緑色の稲穂が心を落ち着かせる。

つかみどころがないほどの真っ青な空が広がって、自分の心のように行く当てのない歪な形をした雲が漂っていた。

それから何年も経ってもその景色だけは色あせず瞼に焼き付いている。

もう一度その光景を見たくなったので、外の景色を見る。

もう田んぼなんか見えやしない。

向島駅が新しく出来て、何もかもが変わってしまった。

もう一度、あの景色を見たかったのだ。しかし、窓の外は思い出の一かけらもなくなっている。

私は、大切なものを置き去りにして来たような気がした。

あの時の、透き通るような空に浮かんだ歪な雲の映像がよみがえる。

あの時と同じ莫然とした不安。

絶望に釘を打ち付けられたように響いた宇治川の鉄橋を渡るときの電車の音。

その頃の私にとっては見たことのないような大きな川だったのだ。

川を渡ると宇宙ステーションのような給水塔を囲んで立ち並ぶ真新しい団地が迫ってきた。

あの時と全く同じ気持ちなのに、目に映る景色は、廃園から何年も経った遊園地のように寂しく朽ち果てていた。

なぜだ。

心の内側にあるこの寂しい気持ちだけは、あの頃と少しも変らないのに。

あの時と同じように桃山御陵前駅で降りてみたくなった。

そうすれば、またあの頃の自分を取り戻せるような気がした。

アナウンスが流れ、停車した。

降りた。

あの時に戻りたかったのだ。

そう、あの時の駅は、ベンチも壁も真っ白いペンキが塗りたてのようで、鼻の奥をくすぐられるような好奇心と不安が混ざったようなにおいがしていた。

京都行のホームから階段を下りて、奈良行のホームに行く階段を上るときに、駅員さんに声をかけられないか心配で恐ろしかった。

階段を上がると、木製の長いベンチがあって、ポツンと赤ちゃんを抱いたおばさんが座っていた。

寂しかったので、わざわざその近くに座った。

赤ちゃんは、おばさんの肩越しに身を乗り出して、ガラスのない窓から、ちらちらと顔を出そうとしている御香宮神社の新緑の葉っぱをつかもうとしていた。

一生懸命に手を伸ばすが届かない。

見かねて、枝を引っ張って、赤ちゃんに葉っぱを握らせてあげた。

白い壁から新緑の小枝が、小筆の筆先のように差し込んで、先っぽが、ピンク色の赤ちゃんの手に収まった。

おばさんは、その様子を見ていた。

「ありがとう」

「何年生?」

「一年生です」

「ひとり?」

「はい、大久保から伊勢田で降りるつもりだったけど、急行に乗ってしまったので桃山まで来てしまいました」

自分でもびっくりするくらいに、ちゃんと話せた。

「えらいねえ、私たちは次に来る急行に乗るけど、ボクちゃんは後の普通にちゃんと乗りなさいよ」

「ありがとう」

ずっとおばさんと話し続けたかったけど、すぐに急行が来た。

赤ちゃんの手から新緑が離れて、キャンバスのようなガラスのない窓に戻されてしまった。

さっと一陣の風が吹いて、おばさんの黒髪が舞い上がってこちらに降り注いだ。その拍子に、おばさんは立ち上がった。葉っぱを握ったままの形をしたピンク色の赤ちゃんの手は、こちらへ向けられたままでいた。

マルーンレッドの車体が重たい体を引きずりながらホームに入ってきて、ドアを開けた。

赤ちゃんの手が、名残り惜しそうに遠ざかる。

いつの間にか、バイバイをしている。

それに気づいたおばさんは振り返った。やさしい顔だった。

あの時のおかあちゃんと同じくらいにやさしい顔だった。

終幕のときのようなブザーが鳴って、ドアが閉まった。

電車が走り出した。

車掌が怪訝な顔つきでこちらを見た。

電車が行ってしまった。

長いベンチにひとり取り残された。

赤ちゃんのバイバイをしている手とおばさんの振り返った顔が残像のように目に焼き付いている。

なぜかあの赤ちゃんがうらやましく思えて仕方がなかった。

またこの光景はどこかで見たことがあるような気がした。

急に寂しくなった。

ヒクッ、悲しみが突然こみ上げてきた。ヒクッ、電車に乗ってもそれは収まらない。伊勢田駅が近づくにつれてその間隔は段々と短くなってくる。

ヒクッ、ヒクッ、ヒクッ、改札を出ると、止まらなくなってきた。

アキちゃんの家の前を通って、竹林を抜けて、伊勢田神社の鳥居の前に来たあたりから、それが段々と大きくなって長く尾を引くようになってきた。

お墓の前を通り過ぎて、ヒロくんの家の養鶏場まで来て、自分の家が見えたとたん、ワァと大声で泣きだした。

あまりの大きな声にびっくりしておかあちゃんが出てきた。

それをすり抜けるように玄関を上がり、居間でのたうち回って泣き叫んだ。

おかあちゃんに抱きついた。

おかあちゃんの割烹着の肩先に涙のあとができるくらいにずっと泣き続けた。

おかあちゃんは、何も聞かなかった。ただずっと抱きしめてくれた。ただずっと、ずっと泣き続けた。

今、55年前と同じホームにいる。

木製の長いベンチでなくて、大人が3人くらいしか座ることのできないアルミ製のベンチに変わっている。

そこに腰かけた。窓が一切なくなっていて、御香宮神社の緑は一切見えない。

電車が到着すると、他の乗客は慌ただしく出入りしてゆく。

私一人だけがホームに残される。

誰も気に掛ける人もいない。

目を閉じた。

白い木製のベンチの感触、ガラスのない窓からのぞく御香宮神社の新緑、赤ちゃんのピンクの手のひら、一陣の風にあおられるおばさんの黒髪。

鮮やかによみがえってくる。

親子の乗る電車が行ってしまった。

あの時の寂しさ。

必死で泣くのを抑えて帰ったこと。

おかあちゃんに抱っこしてもらいながら泣いたこと。

大切なものを失ったような気がした。

そして、今まで大切なことを忘れていたことに気づいた。

報いることのできない罪を犯してしまった自分を悔いた。

目をつむったまま顔を上げた。

おかあちゃんの顔が浮かんだ。

「おかあちゃん、ゴメン」

涙が頬を伝わってくるのを感じた。

ヒクッ、ヒクッ、あの時のように悲しみがヒャックリのようにこみ上げてくる。あの頃のように大声で泣き叫びたかった。のたうち回るようにして泣き崩れたかった。

抱きしめてくれるおかあちゃんはもういない。

こらえればこらえるほど涙がとめどなくあふれてくる。

おかあちゃんはもういない。

気が付くとあの時と同じ鼻の奥でつんと塗りたての白いペンキのにおいがした。

不安と好奇心の入り混じったようなにおい。白いペンキのにおい。

それは、何かが自分を呼び起こした。

またここから始めればいいんだ。

また、ここから始めよう。

目を開く。

涙で回りが光輝いて見える。

私は失った時間を惜しむように、京都行のホームに戻って、電車に乗った。

「もうここには戻るまい」

心に誓った。

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